清史紀事本末皇族親貴の専権(親貴用事)
禁衛軍創設以降、載濤・載沢・載洵ら満州皇族が軍事・財政・海軍などの要職を独占していく過程を描く。慶親王奕劻の専権・収賄を弾劾した江春霖ら言官が退けられる一方、辛亥革命勃発により皇族閣僚が一斉に罷免されるまでの約3年間。
年表(4件)
- 徳宗
- 光緒三十四年(1908年)載濤・毓朗・鉄良を禁衛軍訓練大臣に任命
- 末帝
- 宣統元年(1909年)善耆・載沢・鉄良らを海軍籌備担当に任命
- 宣統二年(1910年)江春霖が奕劻の専権を弾劾するも処分される
- 宣統三年(1911年)辛亥革命勃発により奕劻・載沢・載濤ら皇族が罷免
徳宗光緒三十四年(1908年)
- 冬十二月、郡王銜貝勒載濤・貝勒毓朗・陸軍部尚書鉄良を禁衛軍訓練大臣に任命した。禁衛軍は摂政王自らが統率し、載濤らが訓練を担当した。
末帝宣統元年(1909年)
- 春正月、粛親王善耆・鎮国公載沢・陸軍部尚書鉄良・海軍統領薩鎮氷を海軍籌備担当に任命、鉄良は禁衛軍訓練の兼務を解かれた。
- 夏五月、皇帝が海陸軍大元帥を自称するも当面は摂政王が代理するとし、軍諮処を新設(毓朗、のち載濤が管理)。載洵・薩鎮氷を海軍籌弁大臣に任命した。
- 六月、奕劻が陸軍部管理の兼務を辞任した。
- 秋七月、載洵・薩鎮氷が沿江沿海各省の武備を視察後、欧州各国の海軍視察に赴いた。
- 冬十一月、載沢を塩政督弁大臣に任命した。
宣統二年(1910年)
- 春正月、御史江春霖が慶親王奕劻の専権・収賄を弾劾したが「妄言」として原職留任の処分を受けた。奕劻とその子載振の縁戚関係(直隷総督陳夔龍・安徽巡撫朱家宝父子)を名指しした内容が問題視され、給事中・御史らの擁護も却下、四川提学使趙啓霖も弾劾を試みたが受け入れられず辞職した。江春霖・趙炳麟・趙啓霖は気骨ある言官として「三霖」と称され、春霖は都を去る際に自らの節義を詠んだ詩を松筠庵に残したという。
- 夏四月、塩政大臣載沢と各督撫の権限争いにより双方が戒告を受けた。
- 六月、載洵が参預政務大臣を兼務、欧州視察後さらに日本へ視察に赴いた。督撫・皇族に清廉を求める上諭が出された。
- 秋七月、大学士世続が軍機大臣を解かれ、内閣学士呉郁生も軍機処勤務を外れた。貝勒毓朗が協弁大学士、徐世昌が軍機大臣となった。毓朗は多忙を理由に歩軍統領・禁衛軍訓練大臣の兼務も解かれた。
- 八月、四川塩茶道を塩運使に改組、尹良・熊希齢を任命した。
- 冬十月、貝子溥倫・鎮国公載沢を憲法起草大臣に任命。十一月、籌弁海軍処を海軍部に改組し載洵を海軍大臣に、薩鎮氷を長江艦隊統制に任命した。載洵・載濤の兼務を整理。奕劻の軍機大臣辞任の申し出は、功績を理由に慰留され却下された。十二月、載振を英国王戴冠式専使に任命した。
宣統三年(1911年)
- 春二月、溥倫を農工商部尚書、溥頲を熱河都統に任命。三月、載沢が英米独仏4カ国銀行借款契約に調印した。夏四月、軍諮府を設置し載濤・毓朗を軍諮大臣に任命。閏六月、永平秋操を載濤が代理監臨。溥倫・載濤に皇室大典の編纂を命じた。善耆を理藩大臣に任命。秋八月、奕劻の辞任の申し出は再度慰留された。塩政処を塩政院に改組し載沢が兼任した。
- 辛亥革命の勃発を受け、奕劻・載沢が罷免され、湖広総督袁世凱が内閣総理大臣に就任した。載濤も罷免され蔭昌が軍諮大臣に、奕劻は弼徳院院長となった。毓朗も罷免され、徐世昌が軍諮大臣(のち禁衛軍訓練大臣も兼務)となった。