清史紀事本末宣統帝の践祚(宣統嗣立)
光緒帝と西太后が相次いで崩御し、幼帝溥儀(宣統帝)が摂政王載灃の後見のもとで即位してから、辛亥革命の勃発を経て退位に至るまでの4年間を描く。安慶・広州での革命派蜂起、ダライ・ラマ出奔問題、各地の民衆暴動、袁世凱の罷免と再登板など、清朝末期の混乱と崩壊の経緯をたどる。
年表(4件)
- 徳宗
- 光緒三十四年(1908年)光緒帝・西太后が相次いで崩御し溥儀が即位
- 末帝
- 宣統元年(1909年)張之洞ら重臣が相次いで死去し新政策が続く
- 宣統二年(1910年)ダライ・ラマ出奔や各地民衆暴動が頻発
- 宣統三年(1911年)武昌蜂起により辛亥革命が勃発し宣統帝が退位
徳宗光緒三十四年(1908年)
- 冬十月、醇親王載灃が摂政王に任命された。徳宗(光緒帝)は前年秋から病床にあり、10月20日には西太后も体調を崩し、載灃に朝政の代行を命じた。
- 載灃の子・溥儀(当時数え3歳、生母は栄禄の娘)が宮中に呼び寄せられ皇后のもとで養育されることとなった。西太后は光緒帝に後継について奏上させ、帝は「長を立てるのが順当」としつつも、載灃摂政の報には安堵したという。
- 10月21日酉刻、光緒帝が崩御。遺詔で溥儀の践祚と摂政王載灃の後見を明示し、9年後の立憲実現を期した。
- 溥儀は穆宗(同治帝)の後継とし、光緒帝の祧をも兼承することとされた。載灃を監国とし、西太后を太皇太后、生母を皇太后とする詔が下った。
- 10月22日未刻、太皇太后(西太后・葉赫那拉氏)が崩御。
- 安慶で熊成基が馬砲隊を率い秋操に乗じて蜂起したが(安徽馬砲兵変)、城内の防備と兵艦の攻撃で鎮圧され、熊は後にハルビンで捕えられ吉林で処刑された。
- 十一月、溥儀が即位し、翌年を宣統元年とした。光緒帝に諡「同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寛勤景皇帝」、廟号「徳宗」、陵号「崇陵」を、西太后に諡「孝欽顕皇后」を上った。監国摂政王の礼節を頒示。変通旗制処を設置。太后の徽号を「隆裕皇太后」とした。奕劻の親王世襲を許可し、王公大臣に恩賞を与えた。上諭は軍機大臣署名の制とした。
- 十二月、禁衛軍を新設し摂政王が兼統。大学士王文韶が死去(諡文勤)。京漢鉄道を国有に回収。軍機大臣袁世凱を開缺・帰郷養病とし、那桐を軍機大臣に、梁敦彦を外務部尚書代理とした。
末帝宣統元年(1909年)
- 春正月、郵伝部尚書陳璧が濫費で革職、東三省総督徐世昌が後任となった。
- 三月、各国が光緒帝への弔問専使を派遣。梓宮(棺)が山陵に移送された。故立山・徐用儀・許景澄・聯元・袁昶に諡が追贈された(戊戌政変期の犠牲者)。
- 夏四月、載振・戴鴻慈をそれぞれ日本・ロシアへ答礼使として派遣。各省財政を藩司・度支司に一元化する方針を定めた。
- 五月、翁同龢の官位を復旧。摂政王が海陸軍大元帥を代行し、軍諮処を新設した。
- 六月、津浦鉄道の不正で督弁大臣呂海寰を解任、徐世昌を後任とした。
- 秋七月、張人駿を南洋勧業会会長に任命。日本と東三省5案条約を締結し、安奉鉄道問題等が決着した。
- 八月、大学士張之洞が死去(諡文襄)。福州で大火・大風害が発生。戴鴻慈を軍機大臣とした。
- 九月、鹿伝霖を大学士、陸潤庠を協弁大学士に任命した。
- 冬十月、直隷総督端方が西太后霊柩護送時の不敬行為(撮影・神道横断)で革職。大学士孫家鼐が死去(諡文正)、陸潤庠を大学士、戴鴻慈を協弁大学士とした。
- 十二月、建言する大臣への戒めを発した。留学帰りの詹天佑・厳復らに進士・挙人を授与。太后万寿節の祝賀を停止させた(太后の御所には巨費を投じた「水晶宮」=霊沼軒の建設中で、退位まで未完だったという逸話を付す)。
宣統二年(1910年)
- 春正月、ダライ・ラマ(勒朗結)の号を剥奪した。ダライ・ラマがロシアと密約を結んだ疑いを駐蔵大臣趙爾豐が報告したことを受け、川軍が入蔵、ダライは英領インドへ出奔し、英・露との外交摩擦に発展した。戴鴻慈が死去、徐世昌を協弁大学士、呉郁生を軍機大臣とした。上奏時の「臣」称を一律化した。
- 二月、山西交城で禁煙政策に反発する民衆暴動が起きた。広東では汪兆銘らが摂政王暗殺を謀り露見したが、無期禁錮に減刑された(懐柔策)。
- 三月、長沙で米価高騰による飢民暴動が発生し、巡撫衙門・教会・学堂が焼き討ちされた(劣紳王先謙・葉徳輝らの対応不備が一因とされる)。巡撫岑春蓂を更迭、関係官吏を処分、王先謙・孔憲教は降格、葉徳輝・楊鞏は革職とされた。奉天巡撫を廃止した。
- 夏四月、彗星が出現。汪大燮を駐日公使に任命した。
- 五月、江蘇沛県での性転換に関する風説が記録されている。進士館留学卒業生に叙位を行った。
- 六月、山東の萊陽・海陽で苛税への暴動が起き、官兵の弾圧で数百人が死傷した(銅元換算率の不公正な引き下げが原因とされる)。督撫に地方官選任の慎重を促す上諭が出された。
- 秋七月、浙江鉄道総理湯寿潜が郵伝部侍郎盛宣懐を非難し職を解かれた。鹿伝霖が死去(諡文端)。各省交渉使を設置。沈瑞麟をオーストリア公使に任命した。
- 八月、劉玉麟を英国公使に任命。蔭昌を訓練近畿陸軍大臣に、近畿陸軍を陸軍部直轄とした。四川塩茶道を塩運使に改組。徐世昌を大学士・吏部尚書、李殿林を協弁大学士に任命。江海関道蔡乃煌が不正で革職となった。
- 九月、四川定郷で兵変が起き雲南中甸まで波及後鎮圧された。留学卒業生への叙位が続いた。
- 冬十一・十二月、留学卒業生への叙位が続く一方、雲南大姚で民衆暴動が起き鎮圧された。各省官制改訂のため錫良ら5総督を任命。載振を英国王戴冠式への専使に派遣したが、かつての楊翠喜事件の醜聞もあって英国側に軽視され、帰国後、駐英公使劉玉麟が処分された。
宣統三年(1911年)
- 春正月、英軍の片馬占拠に抗議し撤兵を要求した。東三省で疫病が流行した。
- 二月、四川徳格等土司の改流(直轄化)を実施、駐蔵幇弁大臣を廃止し左右参賛を設置。全国軍隊への訓諭を発した。黄興らが広州で蜂起(黄花崗の役)、総督衙門を焼くも鎮圧され死者72名、黄興は香港へ逃亡した。孫文の興中会以来の革命運動の経緯(1895年広州挙兵失敗、黄興らの華興会、同盟会結成、1907年鎮南関攻撃、1908年河口攻撃と、いずれも失敗を重ねてきた)が付記されている。
- 夏四月、江蘇諮議局が予算案を巡り両江総督張人駿と対立、議員全員が辞職した。秋季の禁衛軍・近畿陸軍による永平府大操を予告。吉林省城で大火が発生し、官庁施設の多くが焼失した。
- 六月、皇帝の毓慶宮入学に伴い陸潤庠らを侍講に任命。天変(黒虹の出現)が記録された。広東で財政条例を施行。各省で水害・大火が発生した。
- 秋七月、摂政王が禁衛軍を閲兵した。
- 八月、武昌で民軍が蜂起し(辛亥革命勃発)、湖南・江西・陝西・貴州・山西・雲南・浙江・江蘇・広西・安徽・広東・福建・四川が次々と呼応した。
- 九月、日食・月食が記録された。十二月二十五日、宣統帝の退位の詔が下された。