清史紀事本末アヘン厳禁の諭(諭禁鴉片之嚴厲)

清朝によるアヘン禁止政策の変遷を描く。道光初年からインド経由で拡大した罌粟栽培と吸食の弊害に対し、光緒初年の郭嵩燾の建白や地方官の禁令に始まり、光緒末年には日本の台湾統治や英国との協定を参考に10年での全廃を目標とする本格的な禁煙政策が展開され、宣統3年(1911)の全面禁止督励に至るまでの約35年間。

年表(11件)

徳宗光緒二年(1876年)

  • 秋八月、罌粟栽培の厳禁令を定めた。アヘンの害は雍正期に始まり、当初は薬品扱いだったが、イギリス商人が「洋薬」として内地に販売するようになり、道光初年からインド経由で雲南に広がった。以後、四川(川土)、甘粛(西土)、貴州、陝西、山西へと栽培が拡大し、西洋人自身が害悪を認めて禁止を勧める中、中国側にも厳禁論が高まったが、実効性は乏しかった。

光緒三年(1877年)

  • 春二月、駐英公使郭嵩燾が、英国の要人・議員から強く勧められたこともあり厳禁を上奏したが、応答はなかった。アヘンはタイや日本にはなく中国だけが蔓延している現状を憂い、3年の期限を設けて禁煙を進め、達成できない官吏・生員・挙人らは処罰する具体案を示した。
  • 三月、再度上奏し、期限設定・栽培厳禁・詐欺防止・紳士による監視・規則明示・煙館廃止の6項目の対策を提案、各省への諮問に回された。

光緒四年(1878年)

  • 春二月、工部右侍郎閻敬銘・山西巡撫曾国荃が、山西の飢饉の一因が罌粟栽培による食糧不足にあるとして禁令の再徹底を上奏、許可された。
  • 秋七月、陝甘総督左宗棠が、甘粛での禁煙の成果に応じ関係官吏の賞罰を上奏、実施された。
  • 九月、曾国荃が両江の先例に倣い、罌粟栽培地を没収する制度の導入を上奏、許可された。

光緒八年(1882年)

  • 夏六月、山西巡撫張之洞が罌粟栽培の弊害を四点(食糧不足、水利の浪費、民の怠惰と関税収入への影響)にわたって挙げ、厳禁を上奏した。段階的・地域別の実施と戒煙局の設置を提案し、許可された。

光緒三十一年(1905年)

  • 春正月、戸部が洋薬・土薬の害を訴え、年次別の禁煙法・統一施策を上奏、許可された。従来の禁令が効果を上げない中、日本の台湾統治での禁煙策に倣い、官による膏の製造・許可制を導入する方針が示された。

光緒三十二年(1906年)

  • 秋八月、10年以内の全廃を目指す禁煙令が出された。政務処が、栽培制限・許可証交付・減煙期限・煙館禁止・煙草店取締・公的処方薬の整備・戒煙会設置・地方官と紳士の責任・官吏の率先禁煙・洋薬輸入抑制の10項目の具体策を上奏し、頒布された。

光緒三十三年(1907年)

  • 秋九月、睿親王魁斌、荘親王載功、都御史陸宝忠、副都御史陳名侃らのアヘン吸食が発覚し、職務を一時解任された(戒煙できれば復職可)。

光緒三十四年(1908年)

  • 二月、外務部が英国と6項目の禁煙協定案を上奏、賛同された。内容は、洋薬(インド産アヘン)輸入の年次削減による10年での全廃、輸出地インドへの監視員派遣、土薬税の増徴、香港での煙膏製造・輸出入の禁止、租界内の煙館取締、モルヒネの禁止である。のちに英仏葡等各国とも細目を確定した。
  • 三月、恭親王溥偉・協弁大学士鹿伝霖を資政院事務担当に、景星・丁振鐸を禁煙大臣に任命した。
  • 秋七月、内閣学士文海・載昌がアヘン常用を隠して登録していた疑いで革職となった。

末帝宣統元年(1909年)

  • 春二月、禁煙方法を再度布告した。
  • 冬十二月、禁煙条例を頒布した。

宣統二年(1910年)

  • 秋八月、吉林など各省で罌粟根絶が未達であることが判明し、督撫を処分した。
  • 冬十二月、禁令を再徹底させた。

宣統三年(1911年)

  • 夏四月、英国との禁煙協定に基づき、各省督撫に栽培・吸食・運搬の全面禁止を督励させた。