清史紀事本末予備立憲の宣示(預備立憲之宣示)

清末、日露戦争を機に立憲政治導入の機運が高まり、光緒31年(1905)に載沢ら五大臣を欧米・日本へ視察に派遣したことに始まり、光緒34年(1908)の憲法大綱頒布に至るまでの過程を描く。呉樾による爆弾テロ、官制改革、諮議局設置準備などを経て「9年後の立憲実現」を掲げるが、実質は皇族・官僚主導の名目的なものにとどまり、国人からは「欽賜の憲法」と揶揄された。

年表(4件)

徳宗光緒三十一年(1905年)

  • 夏六月、清朝は鎮国公載沢、戸部侍郎戴鴻慈、兵部侍郎徐世昌、湖南巡撫端方らを欧米・日本へ派遣し政治制度の視察を命じた。伊藤博文の先例に倣ったもので、日露戦争を「立憲対専制の戦い」と見る風潮が広まり、駐仏公使孫宝琦の建白や疆吏・宮廷内の一部の主張もあって、対外的な体裁づくりの意味合いが強かった。
  • 秋七月、商部右丞紹英も視察団に加わった。
  • 載沢らが正陽門駅から出発しようとした際、革命派の呉樾が爆弾を投げ、載沢・紹英が軽傷を負い、呉樾は自爆死、同志の張榕は逃亡した。背景には戸部侍郎鉄良の江南での苛斂誅求への反発があり、呉樾は当初鉄良を狙っていたが、標的を立憲視察団に変えたとされる。
  • 九月、負傷者に代わり山東布政使尚其亨・順天府丞李盛鐸が視察団に追加された。
  • 冬十月、政務処に立憲大綱の策定を命じ、考察政治館を新設した。ただし憲法制定権は皇帝に留保され、民意の反映は名目に過ぎないと識者は見抜いていた。
  • 十一月、学部を新設し国子監を統合。日本と中日新約を締結した。

光緒三十二年(1906年)

  • 春正月、北海万善殿が焼失した。
  • 三月、教育宗旨を宣示。江西南昌でフランス人宣教師王安之殺害事件が起こり、事態収拾に赴いた知県江召棠も殺害された。巡撫胡廷幹は更迭され、侍郎梁敦彦がフランス公使館と協議し賠償で決着した。
  • 夏四月、各省学政を廃止し提学使司・提学使を新設。破産律を頒布。鉄良を督弁税務大臣に任命した。
  • 秋七月、立憲準備を宣示し、まず官制改革から着手する方針を示した。詔では、国内の官民の乖離を憂い、視察の成果を踏まえて数年かけ漸進的に立憲へ移行するとした。
  • 九月、官制改革を実施。巡警部を民政部に、戸部を度支部に、太常・光禄・鴻臚三寺を礼部に、兵部を陸軍部に、商部を農工商部に改組し郵伝部を新設、理藩院を理藩部に改称した。刑部は法部(司法専任)、大理寺は大理院(審判専任)に改編した。
  • 冬十一月、広東陸路提督を廃止し水師に統合。孔子祭祀を大祀に格上げ。京師内外城総庁を新設した。

光緒三十三年(1907年)

  • 春二月、郵伝部尚書張百熙が卒去(諡文達)。侍郎唐紹儀との確執の末の憤死とされる。
  • 三月、盛京将軍を東三省総督に改め、奉天・吉林・黒竜江に巡撫を新設した。
  • 夏四月、御史趙啓霖が段芝貴の黒竜江巡撫就任を巡り、慶親王奕劻の子載振への賄賂(歌妓楊翠喜の献上等)を弾劾したが、調査の結果事実無根とされ啓霖は罷免(六月に復職)。
  • 五月、協弁大学士瞿鴻禨が、軍機処内での奕劻との対立の末に新聞への内通を疑われ罷免された。
  • 各省按察使を提法使に改称し、巡警道・勧業道を新設、審判庁を分設する司法改革を東三省・直隷・江蘇から試行し、15年で全国展開する方針を定めた。
  • 六月、礼学館を設置。軍諮府を設置。永定河等が氾濫。西直門外の可園を公園に改修し、西太后自ら「暢観楼」等の名を命名した。
  • 秋七月、満漢の身分格差是正を各衙門に命じた(革命排満の気運の高まりへの対処)。両広総督岑春煊は郵伝部尚書時代に侍郎朱宝奎を弾劾したことで奕劻らの反感を買い開缺となった。考察政治館を憲政編査館に改組。楊士琦を南洋華僑視察に派遣した(革命派との連携を警戒)。
  • 八月、汪大燮・于式枚・達寿を英・独・日へ憲政視察に派遣。資政院設置を詔した。
  • 十月、満漢通行の礼制・刑律の改訂を命令。各省に諮議局設置、調査局・統計処の設置を命じた。
  • 十一月、湖南挙人蕭鶴祥らによる国会開設要求は、都察院・御史らの上奏も含めすべて却下された(諮議局・董事会の実績を見てから、との理由)。

光緒三十四年(1908年)

  • 春正月、広東で日本船「二辰丸」による武器密輸事件が発覚、賠償で解決した。
  • 二月、達寿を帰国させ、代わって李家駒を日本へ派遣した。
  • 夏四月、綏遠将軍貽穀が墾殖利権を巡り蒙古の台吉丹丕爾一家5人を殺害し逮捕された。
  • 遠警律を頒布。功臣子孫への恩賞を実施した。
  • 六月、諮議局章程・議員選挙章程を頒布した。
  • 秋七月、政聞社を禁止。広東で暴風被害、湖南・湖北・広東で水害が発生した。
  • 八月、憲法大綱を頒布した。皇帝の統治権・法律裁可権・議院召集解散権・官吏任免権・軍統帥権・宣戦講和権・戒厳権・恩赦権・司法権・立法権などを列挙し、君権を強く保持する内容で、臣民の言論・出版・集会・財産・信教等の権利義務も付記された。

史論(編者曰)

編者は、この視察・立憲準備が名目に過ぎなかったと評する。派遣されたのは皇族と官僚のみで国民代表とは言えず、国人は早くから朝廷の意図を見抜き「欽賜の憲法」と揶揄した。外国人も、上院に相当する組織の議員が結局は尚書・侍郎・九卿・督撫で占められる見込みであるとして、「驢馬でも馬でもない立憲」と嘲笑したという。