清史紀事本末見せかけの立憲と皇族内閣の組織(假飾立憲及組織貴族內閣)

宣統帝即位後も立憲準備が形式的にしか進まず、国会早期開設請願がたびたび却下される中、宣統3年(1911)に内閣官制を頒布して内閣を新設したものの、皇族が国務大臣の大半を占め「貴族内閣」と揶揄されたことから辛亥革命勃発を機に総辞職し袁世凱が総理大臣に就任するまでの経緯。

年表(3件)

末帝宣統元年(1909年)

  • 春二月、立憲を実行する旨を改めて宣示した。光緒32年以来の9年間の準備計画は有名無実のまま進んでおらず、この布告も帝の代替わりに際した体裁づくりに過ぎなかった。
  • 夏五月、陝甘総督升允が立憲に反対したため開缺となった。
  • 秋八月、9月1日の各省諮議局開議に際し議員・督撫に訓示を発した。
  • 冬十一月、甘粛布政使毛慶蕃を憲政遅滞の責で革職した。
  • 十二月、直隷など各省諮議局議員の孫洪伊らが20余万人の署名を集め国会早期開設を請願したが却下された(9年間の準備完了と国民教育の普及を待つ方針を再確認)。府庁州県地方自治章程・法院編制法を頒布した。

宣統二年(1910年)

  • 夏四月、現行刑律・幣制則例を頒布した。幣制則例では銀本位のもと「圓」を単位とする新通貨制度が定められた。
  • 五月、孫洪伊ら諮議局議員が30万人規模で第二次国会開設請願を行うも、9年計画堅持の方針で却下された。
  • 冬十月、各省諮議局・代表による第三次請願を受け、宣統五年に議院開設・内閣組織を認める詔が出されたが、督撫・国民の請願にあった「責任内閣」の「責任」の文言が削られていたことに批判が集まった。憲法起草大臣に溥倫・載沢を任命した。
  • 十一月、資政院が軍機大臣の責任所在の曖昧さを指弾する上奏を行ったが、軍機大臣自身が署名した上諭で「朝廷の大権」として却下された。国会早期開設を求める東三省代表は強制送還された。憲政編査館に内閣官制の起草を命じた。十二月、新刑律・暫行章程、宣統三年予算案を頒布。国会請願運動の首謀者とされた天津の温世霖を新疆へ流罪とした。

宣統三年(1911年)

  • 春正月、刑訊(拷問)の停止を再度布告した。三月、全国軍隊への訓諭を発した。
  • 夏四月、内閣官制を頒布し内閣を新設した。総理大臣に奕劻、協理大臣に那桐・徐世昌が就き、外務大臣梁敦彦、民政大臣善耆、度支大臣載沢、学務大臣唐景崇、陸軍大臣蔭昌、海軍大臣載洵、司法大臣紹昌、農工商大臣溥倫、郵伝大臣盛宣懐、理藩大臣壽耆と、各部尚書がそのまま国務大臣に横滑りした。軍機処・会議政務処を廃止した。皇族が国務大臣の多数を占めたため国人から「貴族内閣」と揶揄された。弼徳院を設置。内閣属官制・内閣法制院官制を頒布し憲政編査館・吏部等を廃止した。
  • 六月、諮議局議員が内閣改組を求める上奏を都察院経由で提出したが、「官吏の黜陟は君上の大権」として却下された。礼部を典礼院に改称。溥倫・載沢に皇室大典の編纂を命じた。地方審判庁を設置した。
  • 秋九月、武昌での民軍蜂起(辛亥革命)を受け、湖南・江西・陝西・貴州・山西も相次いで呼応した。資政院が皇族による国務大臣就任の非を上奏し、「皇族内閣は立憲の趣旨に反する」として朝廷は暫行章程の撤回と親貴不任用の詔を発した(同治以来の慣例からの転換であると説明)。資政院に憲法協賛権が付与された。奕劻・那桐・徐世昌・載沢ら皇族閣僚は総辞職し、袁世凱が内閣総理大臣に就任した。