清史紀事本末鉄道の興業(興辦鐵路)

光緒二年(1876)の上海・呉淞鉄道買い戻しに始まり、開平炭鉱輸送用の唐山・胥各荘間鉄道、蘆漢・粤漢幹線、外国資本による龍州・東清・膠済等の鉄道敷設許可を経て、光緒三十四年(1908)の京漢鉄道買い戻しに至る、清末鉄道建設の32年間の展開を描く。

年表(15件)

徳宗光緒二年(1876年CE)

  • 秋九月、英国人が建設した上海・呉淞間の鉄道を買い戻した。同治五年、英商の要請により上海江湾間に鉄道が敷設され、本年には呉淞まで延伸されたが、住民の反発を受け江督沈葆楨が英国領事に中止を要請するも応じられず、駐京英使ウェードとの交渉も難航。ウェードの天津出張を機に直隷総督李鴻章が交渉を重ね、二十八万五千両で買い取ることで決着し、その後不要と判断してレールを撤去、機関車は台湾の打狗湖に投棄した。

光緒六年(1880年CE)

  • 冬十一月、前直隷提督劉銘傳が鉄道敷設の試行を建議したが実現しなかった。銘傳は病気療養中であったが、ロシアとの伊犁条約改訂交渉の緊張を機に召見され、「鉄道は漕運・賑済・商業・鉱業・軍事いずれにも有益であり、清江から北京への路線を皮切りに整備すべき」と上奏。李鴻章・劉坤一もこれに賛同したが、都察院左副都御史張家驤・通政司参議劉錫鴻らの強い反対により議は流れた。

光緒十年(1884年CE)

  • 冬十一月、内閣学士徐致祥が鉄道建設中止と河川工事優先を上奏し、「妄言」として部議処分に付された。光緒三年、開平炭鉱の輸送難解消のため唐山・胥各荘間の鉄道が敷設され、光緒六年には駐米公使伍廷芳の建議で大沽までの延伸が英国人監督のもとで進められていたが、外国利権への譲渡だとする批判が強く、致祥の弾劾も特に激しかったため降格処分となった。

光緒十三年(1887年CE)

  • 春二月、海軍事務衙門が大沽・天津間鉄道の建設を上奏し許可された。山海関から洋河口一帯の海岸は輸送が困難で有事に対応が遅れる恐れがあること、北洋艦隊の燃料が開平炭鉱に依存していることなどが理由として挙げられた。

光緒十五年(1889年CE)

  • 春正月、各省将軍督撫に鉄道建設の議論を命じた。天津・通州間の鉄道延伸案に対し御史余聯沅・屠守仁・洪良品らが「敵に利する」「民を騒がせる」「民の生業を奪う」として反対したが、醇親王奕譞・礼親王世鐸らが逐条反論し、沿海沿江の督撫に意見を求めることとなった。
  • 秋八月、蘆溝橋・漢口間鉄道の建設が決定した。各省督撫の意見は概ね消極的であったが、台湾巡撫劉銘傳の天津経由京師案、江蘇巡撫黄彭年の辺防漕路優先案に対し、湖広総督張之洞の蘆溝橋から河南を経て漢口へ至る案が最も詳細であったため、これが採用され、南は漢口・信陽州間、北は蘆溝橋・正定府間から着工することとなった。実際にはこの路線の資金は仏・白(ベルギー)両国、実質はロシア・フランス資本によるものとなった。

光緒二十二年(1896年CE)

  • 夏四月、フランス人による龍州鉄道建設を許可し、これが外国人による鉄道自営の始まりとなった。海口から龍州、さらに南寧府・北海まで延伸された。
  • 秋八月、駐露公使許景澄が露清銀行と東三省鉄道公司の合同十二条を締結した。
  • 九月、鉄路総公司を設置し四品京卿盛宣懐を督弁とした。日清戦争前は鉄道の有用性への理解が乏しく反対論が強かったが、戦争で北省が南省からの迅速な援軍を得られず敗れたことを教訓に、南北鉄道の整備が急がれるようになった。天津・唐山間、唐山・山海関間の路線が完成し、京津間・京漢間の建設が議されるなか、宣懐は税関道時代の不祥事で処分の危機にあったが、直隷総督王文韶・両江総督張之洞の口添えで救われ、その返礼として之洞の漢陽製鉄所の巨額損失も宣懐が穴埋めし、この縁で宣懐は鉄路総公司督弁に任命された。
  • 冬十二月、吏部右侍郎許景澄を黒竜江・吉林境界鉄道公司の総弁に任命した。

光緒二十四年(1898年CE)

  • 春二月、ドイツ人による青島・済南間鉄道の建設を許可した。山東曹州教案の和約により、ドイツが膠州湾を租借するとともに青島・済南、青州・沂州間の鉄道敷設権を得たことによる。
  • 三月、ロシア人による東清鉄道の建設を許可した。シベリアからハルビンを経て海参崴へ、さらにハルビン・長春間にも及び、沿線の護衛にロシア軍の駐留も認めた。ドイツに膠済鉄道を許した経緯から、ロシアにも同様の権益を認めた。
  • 夏六月、京師に鉄路鉱務総局を設置し、戸部尚書王文韶・侍郎張蔭桓に管理させた。秋九月、英国人による蘇州・杭州・寧波間鉄道の建設を許可した。冬十月、侍郎胡燏棻を天津・鎮江間鉄道の督弁とし、四品京堂張翼を副とした(後に英仏借款により営業)。
  • 十一月、総理各国事務衙門が鉄道建設の優先順位を上奏した。蘆漢・粤漢の幹線と寧滬・蘇浙・浦信・広九等の支線は鉄路総公司の盛宣懐が担当、天津・山海関の内外は胡燏棻が担当、太原・柳林は山西商務局、広西・龍州は提督蘇元春の担当とし、それ以外の小規模路線(距離百里以内・費用百万両以内)を除き、外国資本による支線建設の新規申請は当面停止することとされた。

光緒二十五年(1899年CE)

  • 春二月、英国人による九広鉄道(広州・九龍間)の建設を許可し、英国から百五十万ポンドを借款、鉄道自体を担保に二十年満期・年利五分で借り入れることとした。
  • 冬十月、フランス人による赤安鉄道の建設を許可した。フランスは遼東還付の代償としてロシア・ドイツより得る利権が少ないとして鉄道敷設権の追加を要求し、広州湾租界約章第七款で雷州半島を横断する赤坎・安鋪港間の鉄道建設を認め、広州湾と東京湾の軍事連絡を狙うものであった。

光緒二十七年(1901年CE)

  • 秋九月、大学士王文韶・外務部尚書瞿鴻禨に京師・榆関間の鉄道(内外京榆鉄路)の督弁を命じ、張翼を副とした。天津から山海関・営口に至るこの路線は英国資本・管理によるもので、英国はこれによりロシア・フランスを牽制する狙いがあった。
  • 冬十二月、王文韶を路鉱督弁大臣とし瞿鴻禨・張翼を副とした。関内外鉄道は直隷総督代理袁世凱に改めて督弁させることとした。

光緒二十八年(1902年CE)

  • 春正月、張翼を路鉱事宜総弁とした。秋七月、袁世凱に天津・鎮江間鉄道(津鎮鉄路)の督弁を命じた。許景澄・張翼がドイツ徳華銀行・英国滙豐銀行との借款契約を結んでいたが、測量完了に伴い世凱が詳細契約の交渉を引き継いだ。
  • 九月、盛宣懐が露清銀行と正太鉄道(正定・太原間)の借款契約に調印した。名目上ロシア経営だが実質はフランス資本によるものであった。

光緒二十九年(1903年CE)

  • 夏四月、フランス人による滇越鉄道(老開・雲南箇旧間)の建設を許可したが、住民の反発により武装蜂起が起きた。
  • 五月、外務部が張之洞・盛宣懐の定めた滬寧鉄道(上海・蘇州・南京間)の英国借款詳細契約を上奏し許可された。秋七月、路鉱総局を廃止し商部に統合した。

光緒三十年(1904年CE)

  • 夏六月、張之洞に粤漢鉄道(漢口・広東間)の督弁を命じた。蘆漢鉄道決定後、南幹線の経路をめぐり盛宣懐は江西経由(萍郷炭鉱の輸送利便のため)を主張したが、湖南巡撫陳宝箴は広東出身で華僑からの信任も厚い黄遵憲の起用による資金調達を主張、之洞はこれに反対し宣懐に委ねた結果、当初は米国資本による建設となったが、露仏がベルギー人を介して株式の過半を買収してしまい、湖南官民が「アメリカとの契約に反する」と猛反発、廃約買収運動が起こり、在米・在日留学生の抗議もあって政府は之洞に処理を委ねることとなった。

光緒三十一年(1905年CE)

  • 冬十二月、商部に全国の路鉱産表の編纂を命じた。

光緒三十三年(1907年CE)

  • 秋九月、外務部に英国人との蘇杭甬借款鉄道章程の交渉を命じた。冬十二月、外務部尚書呂海寰を津浦鉄道(天津・浦口間、津鎮路の改称)の督弁大臣とした。

光緒三十四年(1908年CE)

  • 春三月、外務部・郵伝部が英国会社との滬杭甬鉄道合同二十四条の調印を上奏し許可された。英国側の測量遅延から、滬寧鉄道契約時に盛宣懐は一度廃棄を主張していたが、三十一年に蘇浙の紳商が自弁を求め許可され、三十三年には浙路・蘇路の一部区間が開通する一方、英国公使ジョルダン(朱爾典)が改めて百五十万ポンドの借款を強要、これに江浙の民衆が猛反発し(浙路学生鄔剛が抗議の割腹自殺、副技師湯緒も抗議の断食死)、最終的に江浙両省による自弁と英国借款の部管理という形で決着した。
  • 秋九月、郵伝部が滙豐銀行から五百万ポンドを借り入れて京漢鉄道の買い戻しにあてる案に調印した。冬十月、京漢鉄道を清朝が買い戻した。