清史紀事本末日清戦争と和約(甲午戰爭及和約)
光緒二十年(1894)の日本軍による朝鮮王宮占拠を発端に日清戦争が勃発し、平壌の敗走、黄海海戦での北洋艦隊の敗北、旅順・威海衛の陥落を経て、翌光緒二十一年(1895)に李鴻章が下関条約を締結、遼東半島は三国干渉で返還されるが台湾は割譲され台湾民主国も鎮圧される顛末を描く。
年表(2件)
- 徳宗
- 光緒二十年(1894年CE)日本軍が朝鮮王宮を襲撃し日清戦争が始まる
- 光緒二十一年(1895年CE)北洋艦隊が全滅し、李鴻章が下関条約に調印して講和
徳宗光緒二十年(1894年CE)
- 夏六月、日本軍が朝鮮王宮を襲撃し王を幽閉したため、総兵衛汝貴らに援軍派遣を命じた。四月、朝鮮の東学党の乱を受け駐朝通商委員袁世凱の要請で清は済遠・揚威両艦を仁川・漢城へ、葉志超率いる淮軍千五百を牙山へ派遣したが、到着前に乱は鎮圧された。すでに日本は五千の兵を仁川に上陸させており、朝鮮側の撤兵要求にも同時撤兵の合意が得られず、英露の調停も実らないまま月日が過ぎ、日本軍は一万余に増強、公使大鳥圭介が王宮を占拠し衛兵を殺害、王を幽閉した。世凱の急報を受け、鴻章は汝貴に平壌へ、馬玉崑に義州方面へ進軍させた。
- 日本海軍が豊島沖で清の輸送船を襲撃し、英国商船高陞号を撃沈、操江号を拿捕した。牙山の清軍も成歓で敗れた。済遠艦長方伯謙は臆病から白旗を掲げ威海へ逃走、広乙は自焚、高陞号の将兵七百余名が犠牲となった。牙山の清軍は成歓で敗れながらも葉志超は虚偽の戦勝報告を行い、朝廷から褒賞を受けた。
- 秋七月、日本に宣戦を布告し、駐日公使汪鳳藻を帰国させた。葉志超を平壌駐屯諸軍の総統に任命した。馬玉崑・衛汝貴・左宝貴・豊伸阿の各軍が鴨緑江を越えて平壌に集結したが、志超は成歓での虚偽戦果により信任され総統に任じられた。志超本人は病と称して辞退を求めたが許されなかった。
- 八月、日本陸軍が平壌を攻撃し、葉志超らの軍は敗走、記名提督左宝貴は戦死、志超は夜陰に乗じて平壌を放棄し北へ逃げた。平壌には清軍一万七千が集結していたが、将帥は連日の酒宴にふけり軍紀は乱れ(特に衛汝貴の盛軍)、志超は防御一辺倒の姿勢に終始した。日本軍の猛攻で左宝貴が牡丹台で戦死すると軍は総崩れとなり、志超は白旗を掲げて降伏を装いつつ夜に全軍で敗走、日本軍の追撃で二千余名が死亡し平壌は陥落した。志超・汝貴はともに処罰され、四川提督宋慶が諸軍の総統となった。
- 海軍提督丁汝昌が黄海海戦(大東溝海戦)で日本艦隊に敗れた。豊島・成歓の敗報後、汝昌は威海衛で防御に徹していたが、弾劾を受けやむなく出撃。平壌への陸軍輸送を護衛した帰路、大東溝沖で日本艦隊と遭遇し、人字陣で応戦したが、致遠艦長鄧世昌は最速の吉野を沈めようと突撃するも魚雷を受け沈没、乗員二百五十名とともに殉じた。経遠艦長林永升も奮戦の末に戦死、済遠艦長方伯謙は真っ先に敗走の旗を掲げて逃走(後に処刑)、揚威・超勇も沈没し、清側は致遠・経遠・揚威・超勇の沈没、済遠・広甲の敗走という大損害を被った一方、日本艦隊は一艦も失わなかった。それでも鴻章は「力挫兇鋒」と勝利を誇張して報告し、事後の廷議で敗戦の責を鴻章に帰し、三眼花翎・黄馬褂を剥奪、宋慶を幇弁北洋軍務、桂祥に山海関一帯の守備を命じた。
- 秋九月、恭親王奕訢に海軍事務の統括を命じた。九連城・安東県が陥落した。日本の第一軍が鴨緑江を渡り、依克唐阿・銘軍が総崩れとなって九連城・安東が陥落、日本の第二軍も金州西の花園港に上陸し旅順に迫った。宋慶は旅順救援のため軍を返した。
- 冬十月、日本軍が鳳凰城を陥落させ、宋慶は摩天嶺に退いた。恭親王奕訢を軍務督弁、慶親王奕劻を幇弁とし、翁同龢・李鴻藻・栄禄・長麟を協弁とした。日本軍は金州・大連湾・岫巌州・旅順を次々陥落させた。旅順船塢総弁の道員龔照嶴らは防御を怠り逃走を準備しており、諸砲台も相次いで陥落、照嶴らは煙台・復州へ逃亡した。提督聶士成は摩天嶺で日本軍を撃退し連山関を回復した。
- 十一月、日本軍は析木城・海城・復州を陥落させた。侍郎張蔭桓・巡撫邵友濂を日本へ派遣し講和を協議させることとし、天津で李鴻章と協議のうえ税司徳璀琳を通じて日本の伊藤博文に書簡を送ったが拒否され、改めて代表団派遣を要請することとなり、米国公使の仲介と米国人フォスターの助言を得た。
- 十二月、両江総督劉坤一を軍務督弁とし、宋慶・湖南巡撫呉大澂を幇弁とした。日本軍は蓋平を陥落させ、さらに山東半島に上陸して栄城・威海衛を攻略、文登・寧海も陥落した。
光緒二十一年(1895年CE)
- 春正月、日本軍が劉公島を陥落させ北洋艦隊が全滅した。大東溝海戦後、旅順から威海衛へ移った艦隊は日本軍の南北砲台・水雷艇による攻撃で定遠・来遠・威遠・靖遠を失い、島内では兵の反乱、諸洋人顧問の投降勧告もあり、総兵劉歩蟾は自縊、丁汝昌・張文宣は服毒自殺、営務処道員牛昶炳らが降伏を決定、艦隊二十三隻すべてが日本の手に落ちた。日本は康済号で汝昌らの棺を煙台へ送還し、将兵・住民の帰還を認めた。李鴻章を全権として日本との講和交渉に派遣し、蔭桓・友濂は広島で日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と会談したが委任状不備を理由に拒絶され、改めて鴻章に李経方(子)を参賛として同行させ、米国人フォスターも随行した。
- 二月、日本軍が営口を陥落させた。宋慶・依克唐阿・長順らが海城攻略に苦戦する中、布政使魏光燾・按察使陳湜らの湘軍が海城救援に赴くも牛荘で敗北、依克唐阿らは援遼を名目に撤退、宋慶も間に合わず田荘台も陥落した。東辺道張錫鑾が寛甸・長甸・香炉溝を回復した。日本海軍は澎湖を攻略し、台湾守備兵は敗走した。
- 日本の刺客が下関で李鴻章を狙撃し負傷させた。会談は難航していたが、伊藤・陸奥の慰問と国際世論の反発を受け日本側が奉天・直隷・山東での停戦に応じ、交渉が再開された。
- 三月、李鴻章と伊藤博文らが下関(馬関)で講和条約十一款・別約三款に調印した。日本側原案は朝鮮の独立・割地・賠償金・通商権益の四点を骨子とし、鴻章は朝鮮独立以外の各条件について繰り返し減額・縮小を求めたが、最終的に賠償金二億両(利子免除条件付き)、遼東半島の一部と台湾・澎湖諸島の割譲、朝鮮の完全独立、重慶・沙市・蘇州・杭州の開港、内地での外国人の製造業経営許可などを認める内容となった。かつて博文が天津で条約交渉した際に鴻章から厳しく扱われたことへの意趣返しの側面もあったとされる。捕虜交換や、清側関係者の免罪も定められた。
- 夏四月、露独仏三国が日本の遼東半島割譲に干渉し、日本は増額の賠償金三千万両と引き換えに遼東を返還した。清はロシアに接近して仲介を依頼し、露独仏の共同抗議と艦隊派遣により日本は遼東返還に応じた。批准書交換のため伍廷芳・聯芳、および割台使李経芳が派遣された。政府は改めて条約締結の経緯を公表したが、劉坤一・王文韶・張之洞らは割地・処罰を求める激しい上奏を行った。
- 五月、台湾の官民が巡撫代理唐景崧を総統に推戴し独立を宣言した(台湾民主国)。張之洞は台湾の英国への割譲や英国の調停を模索したが英国は応じず、邱逢甲らが台湾民主国の樹立を主導、景崧を大総統とし国旗・議院なども定めたが、日本軍の上陸と内応の混乱により景崧は逃亡、台北はまもなく陥落した。
- 秋九月、日本軍が台南府城を陥落させた。台北陥落後、台南も物資が尽き、劉永福が幇弁として防衛を続けたが、彰化陥落後は軍が崩壊し、永福も内渡して台南も陥落した。
史論(編者曰)
- 編者は、世論が日清開戦の責を李鴻章の外交判断(朝鮮に列強との条約締結を勧めた結果、宗主権の主張が弱まったこと)に帰す傾向を批判的に検討する。実際には両国の衝突の根はそれだけに限らず、初代横浜領事の対応や琉球問題の交渉時に北洋艦隊が長崎で示威行動を行い水兵と警察が衝突した事件など、当時の日本人が深く屈辱と受け止めた出来事が積み重なっており、日本が長年その報復の機会をうかがっていたことも大きいと指摘する。今回それが一気に噴出した以上、責任をすべて李鴻章一人に帰すべきではないと結ぶ。