清史紀事本末海軍の創設と陸軍の改編(創設海軍及改練陸軍)
法越戦争後の光緒十一年(1885)に海軍衙門が設置され北洋海軍が編成されるが、日清戦争での壊滅を経て陸軍改革へと重心が移り、張之洞の自強軍、袁世凱の北洋新軍創設など、光緒十一年から同三十四年(1908)まで24年間にわたる海陸軍近代化の過程を描く。
年表(14件)
- 徳宗
- 光緒十一年(1885年CE)醇親王奕譞に海軍事務の統括を命じ海軍衙門を設置
- 光緒十四年(1888年CE)丁汝昌を北洋海軍提督とし北洋海軍が正式に編成される
- 光緒十六年(1890年CE)劉銘傳に海軍事務の幇弁を命じる
- 光緒二十年(1894年CE)李鴻章が北洋海軍の閲兵を終え復命する
- 光緒二十一年(1895年CE)張之洞がドイツ式の新式陸軍「自強軍」の編成を上奏
- 光緒二十二年(1896年CE)張之洞が武昌で洋式訓練を開始する
- 光緒二十五年(1899年CE)剛毅を江南・広東へ派遣し海軍資金を苛烈に徴収させる
- 光緒二十七年(1901年CE)緑営・防勇の削減と洋式訓練による軍制再編を命じる
- 光緒二十九年(1903年CE)練兵処を設置し奕劻を統括、全国新軍統一に着手
- 光緒三十年(1904年CE)袁世凱が北洋六鎮の増設に着手する
- 光緒三十一年(1905年CE)袁世凱・鉄良が河間で秋操を実施
- 光緒三十二年(1906年CE)兵部を陸軍部に改組する
- 光緒三十三年(1907年CE)全国三十六鎮の編成計画が定められる
- 光緒三十四年(1908年CE)江南・湖北・安徽陸軍が安徽太湖で秋操を実施
徳宗光緒十一年(1885年CE)
- 秋九月、醇親王奕譞に海軍事務の統括を命じ、沿海水師を悉く節制させ、慶郡王奕劻・直隷総督李鴻章に共同で処理させた。正紅旗漢軍都統善慶・兵部右侍郎曾紀澤が補佐した。法越戦争終結後、政府は海防強化を決定し、まず北洋に精鋭水師を編成することとし、京師に海軍衙門を設置、実務は李鴻章が主導した。
- 冬十二月、侍郎黄体芳が李鴻章の海軍会弁差使解任と曾紀澤の帰任・練師専念を求めて上奏したが、「政治を乱す言に近い」として部議処分に付された。
光緒十四年(1888年CE)
- 冬十一月、総兵丁汝昌を北洋海軍提督、副将林泰曾・劉歩蟾を左右翼総兵とし、北洋海軍が正式に編成された。汝昌は淮軍の陸将出身で水師の素養に乏しく、部下の将校らに軽視されていた。泰曾・歩蟾はいずれも福建船政学堂出身で英国留学の優等生であったが、のちの日清戦争でともに戦死し、汝昌も自尽するに至る。
光緒十六年(1890年CE)
- 春閏三月、台湾巡撫劉銘傳に海軍事務の幇弁を命じた(曾紀澤はすでに病没していた)。
光緒二十年(1894年CE)
- 夏四月、李鴻章が海軍の閲兵を終え復命し、部議による褒賞が命じられた。北洋海軍は光緒十四年の成立以来、十七年に第一回、本年に第二回の校閲を実施し、鴻章はいずれも「規模略具、将領の訓練は精熟し、技芸に習熟している」「陣容整い台塢の工事も堅固」と報告した。
光緒二十一年(1895年CE)
- 夏閏五月、両江総督代理張之洞が新式陸軍の編成を上奏し、まず二千数百人規模の「自強軍」を編成することが許可された。かつて同治初年、江蘇巡撫李鴻章が西洋人ウォード・ゴードンらに常勝軍を練らせて功を挙げて以来、洋式訓練が重んじられ、鴻章自身も直隷総督就任後に直隷練軍を洋式化したが、実質は形式に留まり日清戦争での敗北を招いた。之洞は両江総督として実質的な軍制改革に着手し、郷民を募りドイツ人将校を教官に迎え、ドイツ式の営制を採用し、来春石泰(子爵)を統帥、沈敦和・銭恂を副とした。
光緒二十二年(1896年CE)
- 春二月、湖広総督張之洞が武昌での洋式訓練開始(まず二営一哨規模)を上奏し許可された。湖北護軍営の兵士を洋式訓練し、旧来の三旗の兵餉をこれに充てるなど、江南の自強軍と同様の体制をとり、当初はドイツ人ベーレンドルフを総教習としたが、後に日本式に改めた。
光緒二十五年(1899年CE)
- 夏四月、協弁大学士戸部尚書剛毅を江南地方の視察に派遣した。海軍建設のため巨額を計上していたが、太監李蓮英の進言により多くが頤和園の建設費に転用されていた。李鴻章はたびたび海軍資金の不足を訴えたが顧みられず、日清戦争での海陸軍壊滅を経てようやく政府は徴税・釐金・塩課の整理に本腰を入れ、物産豊かな江南に剛毅を派遣した。江南視察後は広東にも派遣され、剛毅は各地で搾取を重ね数百万両を集め、広東七十二行商には年五百万両の「報效」を課すなど、苛烈な取り立てが民衆を苦しめた。
光緒二十七年(1901年CE)
- 秋七月、各省の緑営・防勇について本年内に二、三割の削減を命じ、残りの各営を精選して洋式訓練を施し常備・続備・巡警等の軍に再編、あわせて各省に武備学堂の設立を命じた。これにより将弁学堂・速成学堂・陸軍師範学堂・武備小学堂が各地に設立された。
光緒二十九年(1903年CE)
- 夏五月、侍郎鉄良に直隷総督袁世凱と共同で京旗練兵を担当させた。冬十一月、練兵処を設置し慶親王奕劻を統括、内閣学士徐世昌を提調、劉永慶を軍政司正使、段祺瑞を軍令司正使、王士琦を軍学司正使に任じ、いずれも副都統銜を賜った。従来の兵部は旧式軍を管轄するのみで新軍を統一する機関がなかったため、袁世凱・張之洞の連名上奏により練兵処が新設され、奕劻を総理、世凱・之洞を会弁、鉄良を襄弁とした。鉄良はさらに八旗子弟を募って京師常備軍を組織し、当初京師に置いたが後に保定へ移した。
光緒三十年(1904年CE)
- 秋七月、鉄良に江蘇等省の財政・武備の査察を命じた。光緒二十五年の剛毅の南下以来東南の民力は疲弊していたが、義和団事変の賠償によりさらに重税が課され、中央集権論が台頭。東南の財を北方の練兵に充てる方針のもと、鉄良が江蘇・安徽・江西・湖南・湖北・河南等を巡回し、東南の官民は再来の苛政を恐れ「第二の剛毅」「第二の義和団」と恐れられた。
- 冬十二月、袁世凱の直隷公債発行案が許可された。練兵処が定めた新陸軍営制餉章にもとづき、日露戦争下の局外中立を守るための守備強化として世凱が北洋六鎮を増設、うち第一鎮を鉄良、第二鎮を世凱が統率し、四百八十万両の公債で経費を賄った。旧来の自強右軍・淮軍は解散され、翌年には第三鎮、その年秋には第四・五・六鎮が編成され、これが全国陸軍計画の始まりとなった。
光緒三十一年(1905年CE)
- 秋九月、袁世凱・鉄良を秋操閲兵大臣とし、河間で大操練を実施した。世凱は各鎮を南北両軍に分けて訓練し、成果は西洋人観戦者からも高く評価された。
光緒三十二年(1906年CE)
- 秋九月、河南彰徳府で陸軍会操を行い、袁世凱・鉄良を閲兵大臣とした。北洋・湖北両軍の大演習は西洋人からは訓練の成果が高いと評されたが、日本側の評価は「形勢は見るべきものがあるが精神が伴わない、国民教育の不足による」と手厳しかった。兵部を陸軍部に改組し練兵処・太僕寺を統合、練兵処の軍令司は軍諮府(日本の参謀部に相当)に改編された。
- 冬十月、袁世凱の上奏により第一・三・五・六の四鎮陸軍が陸軍部直轄となった(第二・第四鎮は引き続き直隷の管轄)。十二月、都統鳳山を第一・三・五・六鎮の新軍訓練総統とした。鳳山は榮祿のもとで武衛軍を務め欧州で独墺陸軍を視察した経験を買われた。
光緒三十三年(1907年CE)
- 春三月、奕劻に陸軍部事務の管理を命じ、部議により全国三十六鎮の編成計画(各省ごとの配分と経費負担)が定められ、地方の負担は一段と重くなった。夏六月、軍諮府を設置し道員馮国璋を正使とした。
光緒三十四年(1908年CE)
- 秋八月、江南・湖北・安徽陸軍の安徽太湖での秋操に際し、蔭昌・端方を閲兵大臣とした。