清史紀事本末雲南回民蜂起の平定(平靖滇回)
咸豊五年の雲南回民杜文秀の蒙化挙兵から、同治十二年の岑毓英による雲南全省平定まで19年に及ぶ滇回(雲南回民)の乱の経緯。漢回対立の激化、大理を拠点とした杜文秀政権の伸長、岑毓英による各地回巣の平定と大理陥落・杜文秀自尽までの顛末。
年表(17件)
- 咸豐五年(1855年CE)回民杜文秀が蒙化で挙兵し大理府を占拠
- 咸豐六年(1856年CE)雲南巡撫恆春に滇回討伐が命じられる
- 咸豐七年(1857年CE)恒春が自殺、回勢が三迤にほぼ拡大
- 咸豐八年(1858年CE)張亮基が回衆を圧迫するも封じ込めに留まる
- 咸豐十年(1860年CE)徐之銘の不明朗な処置が問題となる
- 咸豐十一年(1861年CE)徐之銘が回衆と結託し督撫を軟禁・暗殺
- 同治元年(1862年CE)省城解囲と回民帰順が実現
- 同治二年(1863年CE)雲貴総督潘鐸が回衆に殺害される
- 同治三年(1864年CE)岑毓英が馬栄・馬聯陞を捕らえ処刑
- 同治五年(1866年CE)馬如龍・岑毓英が討伐を分担
- 同治六年(1867年CE)岑毓英が豬拱箐の回巣を攻略し三省境界を平定
- 同治七年(1868年CE)岑毓英が石虎関などを破り呈貢等を回復
- 同治八年(1869年CE)岑毓英らが雲南各地の回巣を次々攻略
- 同治九年(1870年CE)大理北路もほぼ平定される
- 同治十年(1871年CE)岑毓英が澂江府城・江那土城等を攻略
- 同治十一年(1872年CE)岑毓英らが大理を攻略、杜文秀が自尽
- 同治十二年(1873年CE)岑毓英らが順寧府等を平定し雲南全省がほぼ底定
咸豐五年(1855年CE)
- 冬十二月、雲南の回民杜文秀が蒙化で挙兵、大理府を占拠し提督褚永昌が戦死した。漢民が回民の永昌の肥沃な土地を狙い、官吏を丸め込んで回民を域外へ追放しようとしたことが発端で、追われた回民は貴州苗族と結び反撃、文秀を首領として大理府城を占拠した。
咸豐六年(1856年CE)
- 冬十二月、雲南巡撫恆春に滇回討伐が命じられた。地方官は非は漢民側にあると認識しつつも回衆の勢力を恐れて和解策に傾き、回民側もこれを利用して勢力を拡大、馬名魁ら強硬派が広西州・邱北・平𢑴等を攻略し惨劇を招いた。大理の紳民が省城へ討伐を訴えたが、総督舒興阿の側近が私利を図って取り合わなかった。事態が朝廷に伝わり、恒春が雲貴総督に、舒興阿は京師召還となった。
咸豐七年(1857年CE)
- 夏六月、恒春が自殺、呉振棫が雲貴総督に。回勢は三迤(雲南の三地域)にほぼ拡大、省城に迫る勢いで、恒春は妻とともに自ら首を吊った。張亮基が四川兵を率いて援護、徐之銘が雲南按察使に。
- 冬十月、在籍侍郎黄琮・御史竇垿が革職。呉振棫の調査により、黄琮らが回漢対立を煽った責任を問われ、逆に回民の冤罪が晴らされた。
咸豐八年(1858年CE)
- 夏五月、呉振棫が回民の帰順と省城解厳を上奏したが、実態は巡撫張亮基が軍を進めて回衆を圧迫し、投降と引き換えに城外に別の城を築いて封じ込めたに過ぎず、亮基の甥が誘殺されるなど事態は悪化した。
- 冬十一月、呉振棫が病により解任、張亮基が雲貴総督、徐之銘が雲南巡撫に。しかし亮基も入城後は回民に行動を制約され、朝廷は振棫を無能とみなし更迭した。
咸豐十年(1860年CE)
- 冬十月、張亮基が病免、劉源灝が雲貴総督に。徐之銘の不明朗な処置(知県馬椿齢の処分をめぐる経緯、按察使鄧爾恆の暗殺疑惑)が問題となったが、之銘は責任を回避し続け、朝廷も明確な処罰を下せなかった。
咸豐十一年(1861年CE)
- 秋七月、劉源灝が召還され、福済が雲貴総督に。徐之銘は回衆と結託して新任督撫を軟禁・暗殺するなどして自らの地位を守り、後任の福済も赴任できなかった。
同治元年(1862年CE)
- 春三月、徐之銘が省城解囲と回民帰順を上奏。武生馬如龍の説得で省城包囲が解かれた。
同治二年(1863年CE)
- 春二月、雲貴総督潘鐸が回衆に殺害された。雲南は大理の杜文秀、曲靖の馬聯陞、省城の馬徳新(回教の指導者)に分裂、徐之銘は罷免されながらも実権を握り続け、馬徳新に依存していた。潘鐸は威権回復を図るが、馬徳新・馬如龍らの反発を招き、馬如龍配下の馬栄が反乱を起こし潘鐸を殺害。布政使岑毓英が藩署を死守し、諸紳民の団練とともに反撃、馬栄を撃退した。之銘は逮捕され京師へ、林鴻年が巡撫、労崇光が総督に任じられたが、之銘の余禍は解決に至らなかった。
同治三年(1864年CE)
- 秋九月、岑毓英が尋甸を攻略し馬栄を捕らえ処刑。冬十月、岑毓英が曲靖を攻略し馬聯陞を捕らえ処刑。
同治五年(1866年CE)
- 夏四月、労崇光の奏請により、馬如龍が西路の回衆討伐、岑毓英が豬拱箐・海馬姑方面の討伐を分担することとなった。労崇光は着任時、諸回の脅しに屈せず単身入城し、漢回対立を「械闘」として穏健に処理する姿勢で信頼を得た。
同治六年(1867年CE)
- 秋七月、岑毓英が豬拱箐の回巣を攻略し三省境界を平定。険阻な地形での攻防戦の末、投降を誘う策略も用いて陶新春ら首領を捕らえ、わずか百二十四日で平定に成功した。
同治七年(1868年CE)
- 夏閏四月、岑毓英が石虎関などの回塁を破り呈貢・武定・元謀等の城を回復。大理の杜文秀が省城を大規模に攻めた際、毓英が奮戦して戦局を好転させ、馬如龍とも和解して協力体制を築いた。
同治八年(1869年CE)
- 各月にわたり、岑毓英・劉嶽昭らが澂江・尋甸・嵩明州・易門県・楚雄・昆陽州・祿豊県など雲南各地の回巣を次々に攻略、省東方面の反乱もほぼ鎮圧された。
同治九年(1870年CE)
- 岑毓英・劉嶽昭・馬如龍らが麗江・威遠・姚州・新興州・永北・鄧川・浪穹など各地を攻略し、大理北路もほぼ平定された。
同治十年(1871年CE)
- 岑毓英が澂江府城・江那土城を攻略、賓居・雲龍州、臨安府属の各回塁を次々に攻略した。
同治十一年(1872年CE)
- 夏四月、岑毓英らが永平・雲南県を攻略し大理西側の後背地を制圧。劉嶽昭も貴州興義府城を回復。五月、趙州・蒙化廰城・大理の上下両関を攻略し大理城に迫った。
- 冬十二月、岑毓英らが大理を攻略、杜文秀は自ら毒を仰いで自尽(部下が首級を持って献上)。十八年にわたり大理を拠点に五十三城を陥落させてきた回乱の中心が、ついに終焉した。
同治十二年(1873年CE)
- 岑毓英らが順寧府・雲州・騰越廳を相次いで攻略、雲南全省がほぼ平定された。咸豐五年の挙兵から十九年、雲南回民の乱はここに底定した。