清史紀事本末天津教案(天津教案)

基督教伝来の経緯を踏まえ、同治九年に天津で発生した仏領事撲殺・教会焼き討ち事件(天津教案)の顛末を描く。子供誘拐や「挖眼剖心」の風説から民衆が暴発した経緯、曾国藩による穏健な処理とそれへの反発、李鴻章への交代と最終的な処分の確定までの一部始終。

年表(1件)

基督教の中国伝来(前史)

  • 基督教は唐の建中二年に伝来した景教に始まる。元代にはローマ教徒ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィノが北京で布教した。明の正德年間、ドイツでルターが新教を興し旧教は衰退、これを憂いたスペイン人ロヨラがイエズス会を興し東洋布教を図った。イタリア人マテオ・リッチが万暦八年に広東へ、二十八年に北京へ入り天主教を広め、徐光啓・李之藻らがこれに学び翻訳事業も行った。リッチの後継アダム・シャール(湯若望)は明清両朝に仕え欽天監を掌り「通玄教師」と尊称された。康熙初年には信徒数十万に達したが、布教者が測量・情報収集にも関わったため乾隆・嘉慶年間に厳禁され勢いは衰えた。
  • 道光二十三年の南京条約以降、布教が条約に盛り込まれ、二十五年には通商各港に教会設立が認められた。以後フランスは天主教保護者を自任し、これが後の教案(教会をめぐる紛争)の温床となった。咸豐八年の広西西林県の馬神父処罰事件(張鳴鳳知県の処分)、同治元年の湖南・江西での教会破壊事件、貴州での宣教師殺害事件、四川での度重なる教案など、教民の横暴と地方官の対応の甘さが積み重なり、民衆の反感が募っていった。

同治九年(1870年CE)

  • 夏五月、天津で人々がフランス領事を撲殺し教会を焼き払う事件が発生、曾国藩に査弁が命じられた。天津では子供の誘拐や「挖眼剖心」の噂が広まり、捕らえられた武蘭珍が天主教民王三の指示によると供述したことから緊張が高まった。崇厚とフランス領事豊大業らが対応中、豊大業が知県劉傑らに発砲する事件が起き、激昂した民衆が豊大業を撲殺、教会や仁慈堂を焼き払い、教民・修道女数十名を殺害、誤ってロシア人商人三名も殺害、英米の講堂も誤って破壊した。
  • 六月、曾国藩がロシア人・英米関係の案件を先行して解決するよう奏上、許可された。崇厚がフランスへの謝罪使として派遣され、成林が通商事務を代行することとなった。
  • 曾国藩は「挖眼剖心」の噂は根拠のない誤伝であると調査結果を報告、通飭により誤解を解くことを求めた。取り調べの結果、王三の供述は二転三転し確たる証拠はなく、仁慈堂に収容されていた子供たちも誘拐ではなく家族が預けたものと判明。噂の背景として、教会施設の秘密主義的な運営、地下室の存在、瀕死の者の受け入れと洗礼の風習、多数の人が出入りしながら出てこないように見えたこと、埋葬の際の不審な状況(複数の遺体が同じ棺に収められ、腐敗の仕方が通常と異なっていたことなど)が挙げられ、これらの誤解が積み重なった末に発砲事件が引き金となり暴発したと分析された。
  • 曾国藩はこの経緯を公表し民衆の疑念を解くとともに、首謀者の処罰と保定の銘軍による治安維持を上奏、知府・知県・知州三名の革職も認められた。毛昶熙が天津に派遣され曾国藩と共同で査弁、丁日昌が補佐、李鴻章も近畿に軍を進めた。
  • 曾国藩は列強との衝突回避を重視し、教会側の名誉回復と穏健な処理に努めたが、この対応は民衆や朝野の頑固派から「売国」と非難され、北京の湖広会館では国藩の扁額が引き倒されるほどの反発を招いた。崇厚は事態悪化を懸念して国藩の病気を理由にした更迭を上奏、李鴻章への交代が命じられた。
  • 八月、曾国藩が両江総督、李鴻章が直隷総督に転任。国藩は既に処理の目途をつけていたが、李鴻章は「処罰が過重になれば将来に禍根を残す」との立場から関与、総理衙門もこれを支持し、最終的に正犯十五名・軍徒二十一名の処分案がまとめられた。
  • 九月、天津の疏防・教案の責任として知府張光藻・知県劉傑が黒龍江への流刑、滋事の民二十名が処刑、二十五名が軍徒とされた。陳国瑞は無関係と判明し不問、曾国藩は事件処理後に北京へ召還され、李鴻章が天津に留まり後始末を担当、崇厚はフランスへ謝罪に赴いた。