清史紀事本末光緒帝の践祚(光緒入繼)
穆宗崩御を受け光緒帝が即位した光緒元年から光緒二十四年(戊戌変法直前)まで24年間の朝廷内外の動静。慈禧太后の垂簾聴政のもとで進んだ天災・教案・冤罪事件、洋務・海防の整備、頤和園造営、光緒帝親政の名ばかりの実現、そして日清戦争敗北から変法への機運の高まりまでを描く。
年表(24件)
- 光緒元年(1875年CE)光緒帝が即位、嘉順皇后アルート氏が崩御
- 光緒二年(1876年CE)直隷・福建・広東で大旱・颶風・水害が相次ぐ
- 光緒三年(1877年CE)楊乃武・畢氏冤罪事件が発覚し地方官が処罰される
- 光緒四年(1878年CE)各地で水害・河川氾濫が相次ぐ
- 光緒五年(1879年CE)呉可読が皇統継承の明文化を訴え自殺
- 光緒六年(1880年CE)ドイツ・イタリアと相次いで条約締結
- 光緒七年(1881年CE)慈安太后が崩御
- 光緒八年(1882年CE)フランスが越南征服を開始、各地で天災相次ぐ
- 光緒九年(1883年CE)河南鎮平県の盗案冤罪が是正される
- 光緒十年(1884年CE)甘粛新疆巡撫が新設され新疆建省が進む
- 光緒十一年(1885年CE)左宗棠死去、台湾巡撫が新設される
- 光緒十二年(1886年CE)四川総督丁宝楨死去
- 光緒十三年(1887年CE)黄河南岸鄭州付近が決壊し百九十万人が被災
- 光緒十四年(1888年CE)頤和園の造営工事が完了
- 光緒十五年(1889年CE)帝の親政が始まるが実権は太后が握り続ける
- 光緒十六年(1890年CE)彭玉麟・楊岳斌・曾国荃が相次ぎ死去
- 光緒十七年(1891年CE)安徽・江蘇・湖北で教会焼き討ち事件が相次ぐ
- 光緒十八年(1892年CE)前大学士閻敬銘死去
- 光緒十九年(1893年CE)四川打箭爐で大地震、海禁が撤廃される
- 光緒二十年(1894年CE)日清開戦、太后の六旬万寿祝賀が簡素化される
- 光緒二十一年(1895年CE)福建古田県で英国人宣教師殺害事件が起こる
- 光緒二十二年(1896年CE)太監寇連材が太后の専横を諫死覚悟で直諫し処刑される
- 光緒二十三年(1897年CE)貝勒載澍が太后の怒りを買い重罰される
- 光緒二十四年(1898年CE)京師大学堂開設、恭親王奕訢死去
光緒元年(1875年CE)
- 春正月、帝が太和殿で即位礼を行った。帝は醇親王奕譞の子で宣宗の孫。穆宗崩御に際し慈禧太后が幼帝擁立により専政を図り、懿旨で文宗の嗣子として迎え入れた。穆宗に嗣子を立てない異例の措置に朝野で批判があり、内閣侍読学士広安は宋の太祖・太宗の故事を引いて将来の混乱を防ぐため鉄券による取り決めを求めたが、申飭を受けた。
- 二月、嘉順皇后アルート氏が崩御。もと尚書崇綺の娘で、慧妃を寵愛する慈禧太后との確執の中、穆宗崩御後に厳しく叱責され、以後絶食し悲嘆のうちに崩じた(享年二十二、諡は孝哲)。
- その後、大学士文祥が死去、剿匪の不首尾により吉林将軍奕榕が処罰される一方、盛京将軍崇実の匪賊討伐が評価されるなど、賞罰が相次いだ。冬十月、翁同龢・夏同善が帝の教育係に任じられ、醇親王奕譞が後見にあたることとなった。
光緒二年(1876年CE)
- 直隷・福建・広東で大旱・颶風・水害が相次いだ。両宮太后に徽号が加えられた。江蘇等で邪教による剪辮騒動が起き取り締まりが命じられた。
光緒三年(1877年CE)
- 春二月、余杭の民、葛品蓮変死事件(楊乃武・畢氏冤罪事件)が発覚、浙江巡撫楊昌濬・学政胡瑞瀾が革職。県令劉錫彤の私怨による誣告と拷問による自白強要が明らかとなり、刑部の再検屍で毒殺の事実がないと判明、関係した地方官が軒並み処罰された。
- 山西・河南の大旱、広東の水害、蘇皖の蝗害・地震など各地で天災が相次ぎ、大学士沈桂芬が日西間の古巴(キューバ)華工条約を締結した。
光緒四年(1878年CE)
- 各地で水害・河川氾濫が相次いだ。
光緒五年(1879年CE)
- 春正月、捐納翰林の制度が停止された。閏三月、吏部主事呉可読が薊州で自殺し、皇統継承の明文化(将来の大統は穆宗の嗣子に帰すべきとの遺書)を訴えたが、王大臣らの議論の末、懿旨により将来皇帝が生む皇子を穆宗の嗣子とすることが確認されるにとどまった。
- 夏四月、四川塩務が官運商銷に改められた(丁宝楨の改革、恩承・童華の反対と最終的な調停)。山東の知県朱永康による委員誘殺事件が発覚し処罰された。
- 陝西・甘粛・四川で大地震、崇綺が熱河都統に左遷(慈禧太后が皇后の父を遠ざけた人事)。四川東郷県の濫殺事件(孫定揚・李有恆らの妄殺、長年の審理の末の処断)が刑部により裁かれた。侍講王先謙の言路統制論をめぐり朝野で論争が起きた。
光緒六年(1880年CE)
- 沈桂芬・景廉がドイツと条約を締結。李鴻章が対ブラジル議約全権大臣に。電線の陸路設置が許可された。宝鋆・李鴻藻がイタリアと条約を締結。醇親王奕譞・宝鋆が神機営を管理することとなった。
光緒七年(1881年CE)
- 春三月、慈安太后が崩御。文宗在世中は温言で諫めるにとどめ垂簾聴政では権限を慈禧太后に譲っていたが、太監安得海処刑の一件では譲らず処断させた(享年四十五、諡は孝貞)。
- 夏、恭親王奕訢・醇親王奕譞・左宗棠・李鴻章らに畿輔水利の整備が命じられた。各地で天災(雹害・地震・颶風・水害)が相次いだ。
- 冬十一月、革職提督李世忠(もと李昭寿、天長で投降し「世忠」の名を賜り莫大な富を蓄えた)が、安徽巡撫裕祿との私的な軋轢の末に処刑された。
光緒八年(1882年CE)
- 各地で地震・水害。翰林院侍読温紹棠が慈禧太后の勤政を求める上奏をしたが申飭を受けた。八月、彗星が東南方に現れ(張・翼の間に位置した。この年フランスが越南征服を企て、三年を経ずして越南全土がフランス領となった)、九月には台湾で颶風水害、十月には直隷深州の地震・灤河の決壊で多数の犠牲者が出た。
光緒九年(1883年CE)
- 春正月、礼部右侍郎宝廷が女性問題を理由に自劾し罷官。二月、河南鎮平県の盗案(胡体安の身代わりに無実の王樹文が処刑されかけた冤罪事件)が朱光第・趙舒翹らの尽力により五年越しで是正された。
- 五月、醇親王奕譞らが雲南報銷案(周瑞清らの横領・贈収賄事件)を裁定、関係者多数が処罰された。六月、山東黄河の氾濫、畿輔の水害。理教(在理教)の禁令が出された。
光緒十年(1884年CE)
- 春三月、太后が緊要事件を醇親王奕譞と協議するよう命じ、貝勒奕劻が総理各国事務衙門を管理することとなった。各地で水害が相次いだ。
- 冬十月、甘粛新疆巡撫が新設され、烏魯木齊都統が廃止された(左宗棠の初案を見直した劉錦棠の建議による新疆建省)。
光緒十一年(1885年CE)
- 夏五月、李鴻章らに水師の大拡張が命じられた。江南・安徽・江西・広東・広西で水害。六月、御史呉峋・編修梁鼎棻が大臣を誣告した罪で処罰された。
- 秋七月、大学士左宗棠が死去、文襄の諡を贈られた。九月、台湾巡撫が新設された。
光緒十二年(1886年CE)
- 春二月、慈禧太后が帝とともに東陵を参拝、礼部尚書延煦が儀礼問題で太后に直言し一時の緊張の末に礼が執り行われた。
- 三月、黄河の氾濫。李鴻章がフランスと越南国境通商章程を協議。四川総督丁宝楨が死去、文誠の諡(都江堰の修復や塩法改革など多くの功績があった)。
- 御史朱一新が太監李蓮英の醇親王随行を批判する上奏を行い太后の怒りを買い降格された。前湖南提督鮑超が死去、武襄の諡。
光緒十三年(1887年CE)
- 各地で保甲整備が命じられた。奕劻・孫毓汶がフランスと国境・通商条約を締結。黄河南岸鄭州付近の決壊で十五州県、百九十万人が被災。前雲貴総督劉長佑が死去、武慎の諡。奕劻・孫毓汶がポルトガルと条約を締結。
光緒十四年(1888年CE)
- 頤和園(清漪園を改称)の造営工事が完了。各地で地震・雹害。十二月、太和門付近の火災により頤和園工事が一時停止された。
光緒十五年(1889年CE)
- 春正月、皇后に葉赫那拉氏(太后の姪)、瑾嬪・珍嬪に他他拉氏が立てられた。二月、帝の親政が始まったが、実権は依然として太后が握っていた。太后は醇親王奕譞の以前の上奏(本生父を尊崇しすぎないよう戒めた内容)を改めて公表し、後世の議論を封じた。
- 三月、大婚・親政の礼成にともない太后に徽号が加えられた。頤和園が完成し帝が太后を伴い遊覧、園内の様子(仏香閣・排雲殿・石舫・電気施設など)や太后の日常の娯楽が語られる。
- 夏六月、雲貴総督岑毓英が死去、襄勤の諡。秋八月、安徽巡撫陳彝の因利局案(貧民への低利貸付制度)は煩瑣として却下された。天壇祈年殿が落雷で焼失(永楽年間建造の香楠材の殿舎が全焼)。江蘇・浙江・湖北で大水。
光緒十六年(1890年CE)
- 春、福建船政大臣が廃止され総督兼管に。四月、前兵部尚書彭玉麟が死去、剛直の諡(規律厳正な治軍で知られ「彭打鉄」と恐れられた)。吉林省城で大火。
- 秋八月、前陝甘総督楊岳斌が死去、勇愨の諡。九月、御史呉兆泰が頤和園工事停止を求め処罰された。冬、両江総督曾国荃が死去、忠襄の諡。十一月、帝の本生父醇親王奕譞が薨去、皇帝本生考の称号と賢の諡が贈られた。
光緒十七年(1891年CE)
- 春、福建建寧府の官職売買事件(梁玉瑜・劉麒祥らの不正工作、蔣斯岱の冤罪主張)が複雑な経緯を経て処理された。四川会理州の民変が鎮圧された。
- 夏、安徽・江蘇・湖北で教会焼き討ち事件が相次ぎ厳重な取り締まりが命じられた。秋、山東巡撫張曜が死去、勤果の諡(もと固始の団練指導者から出世し、山東で治水・道路整備に尽力した)。冬、直隷熱河の金丹道教徒の乱、雲南・貴州の少数民族の反乱がいずれも鎮圧された。
光緒十八年(1892年CE)
- 春三月、前大学士閻敬銘が死去。頤和園の三海修築費用を渋ったことで太后の不興を買い引退していたが、賜諡をめぐり張蔭桓の尽力でようやく認められた。
- 夏、京師・江蘇・安徽・山西で蝗害。山西巡撫阿克達春が汚職により革職。秋、電線損壊罪の規定が定められた。冬、地方官の非刑濫用が禁じられた。
光緒十九年(1893年CE)
- 貴州普安の妖賊の乱が鎮圧された。四川打箭爐で大地震、多数の死傷者。海禁が撤廃された(薛福成の奏請による)。新疆庫車で地震が頻発。
光緒二十年(1894年CE)
- 各地で越南方面の匪賊侵入・地方反乱が相次いだが官軍に鎮圧された。八月、日清開戦に伴い各省に軍費の借款が命じられた。太后の六旬万寿の祝賀は、日清戦争の戦況悪化を受け頤和園での大規模な祝典を取りやめ簡素化された。
- 冬十月、瑾妃・珍妃が貴人に降格(自二品から五品への降格)され杖罰も加えられた。両妃の師である編修文廷式(大考一等一名により七品から四品へ抜擢されていた)が太后の疑惑を招いた事件が背景にある。
- 十二月、御史安維峻が李鴻章と太監李蓮英の関係を弾劾し革職・張家口への流刑となった。李蓮英に恨まれることを恐れた侠客大刀王五(本名王正誼)が護送に付き添った。
光緒二十一年(1895年CE)
- 各地で地震・水害・疫病。福建古田県での英国人宣教師殺害事件、四川省城での教会焼き討ちなど教案が相次いだ。四川総督劉秉璋が革職。
- 冬十月、吏部右侍郎汪鳴鑾・戸部右侍郎長麟が革職。長麟が帝に対し太后からの実権掌握を進言したことが太后の逆鱗に触れたとされる。
光緒二十二年(1896年CE)
- 春正月、京師に官書局が設立(康有為らの強学書局を官営化)。二月、前台湾巡撫劉銘伝が死去。郵政が創設された。
- 太監寇連材が太后の専横(帝への圧迫、頤和園再興の動き)を諫死覚悟で直諫し処刑された(その上奏内容と刑死の様子が語られる)。翰林院侍読学士文廷式が帝への忠誠を理由に太后の忌避を受け弾劾・追放された。
- 各地で災害や少数民族の反乱が相次ぎ、日本との通商行船章程が締結された。ロシアとの新約が締結され、四川松潘の反乱が鎮圧された。
光緒二十三年(1897年CE)
- 春三月、貝勒載澍が太后の怒りを買い重罰・監禁された(穆宗の遺詔をめぐる太后の猜疑、家庭内の紛争が背景)。江西で大水。
- 五月、鹿伝霖が德爾格忒の小土司を降し改流。大学士張之万・李鴻藻が相次いで死去。冬、各省に教会保護の徹底と衙門常駐が命じられた。
光緒二十四年(1898年CE)
- 春正月、経済特科が新設(貴州学政厳修の奏請による)。昭信股票(借款証券)が発行された。京師大学堂の開設、武科の砲銃試験への転換が命じられた。
- 三月、各省の局所整理・保甲厳格化・常平倉の整備が命じられた(尚書剛毅の奏請)。閏三月、ドイツ皇族ハインリヒ親王が来訪。四月、江蘇淮徐海各属で大水。恭親王奕訢が死去、忠の諡と太廟配享。各省の書院が学堂へ改組され、人材登用が各省に命じられた。