清史紀事本末道光期の世局(道光世局)
道光帝の治世下、財政の引き締めや黄河・運河の氾濫、アヘン流入の取り締まり、各地の少数民族・匪徒の反乱鎮圧などが続き、王鼎の諫死や曹振鏞の評価に見られる内政の停滞が語られる。道光元年から三十年の崩御までの30年間。
年表(27件)
- 道光元年1821年雲南永北の夷民の乱を鎮圧、京師で疫病が流行
- 道光二年1822年青海の番人の乱を長齢が平定
- 道光三年1823年永定河・北運河・漳河が氾濫、江南十七州県で大水害
- 道光四年1824年黄河氾濫で河督張文浩が処罰される
- 道光五年1825年王鼎が軍機処入り、漕運水手の秘密結社対策を命じる
- 道光六年1826年海運を初めて試行、台湾の黄文潤の乱を鎮圧
- 道光九年1829年皇帝が太后を奉じ盛京に謁陵
- 道光十年1830年州県衙門の白役を大幅削減、アヘン流通の取り締まりを強化
- 道光十一年1831年広東黎族の乱を平定、票塩法を実施
- 道光十二年1832年黄河堤防決壊で河督張井が罷免、台湾陳弁の乱に討伐を命じる
- 道光十三年1833年陳弁を捕縛し台湾の乱を平定
- 道光十四年1834年峨辺十三支の夷族の乱を平定、黄河・永定河が氾濫
- 道光十五年1835年曹振鏞が没す、文体停滞を招いたと後に評される
- 道光十六年1836年円明園三殿が火災に遭う
- 道光十七年1837年陝甘総督楊遇春が没す
- 道光十八年1838年惇親王緜愷らがアヘン吸食などで爵位を降格・剥奪される
- 道光十九年1839年河東河道総督栗毓美、湖北提督羅思挙が没す
- 道光二十一年1841年河南祥符の黄河決壊で林則徐が東河事業に従事
- 道光二十二年1842年大学士王鼎が和議に反対し諫死、遺書は隠される
- 道光二十三年1843年海防の失策で将軍らの処罰・復職が繰り返される
- 道光二十四年1844年台湾洪協の乱、湖南陽大鵬の乱をともに鎮圧
- 道光二十五年1845年西寧の番族の乱で総兵応和が戦死
- 道光二十六年1846年雲南永昌の回民の乱、東南各省で大地震
- 道光二十七年1847年新疆カシュガルの回民の乱に布彦泰・奕山が討伐に赴く
- 道光二十八年1848年両広・湖南・江西の会匪取り締まりを強化
- 道光二十九年1849年四川瞻対の野番の乱を琦善が鎮圧
- 道光三十年1850年皇帝が崩御し皇四子奕詝が即位、咸豊帝となる
道光元年(1821年)
- 日食。雲南永北の夷民の乱を鎮圧(首謀者瞎眼唐老大を捕縛)。安定門の火災。京師で疫病が流行し多数死亡。福建からの荔枝・蘭の献上を停止した。
道光二年(1822年)
- 山西各州県の丁徭銀を地租に統合。青海の番人の乱を陝甘総督長齢が平定した。吏部尚書松筠が理藩院奏稿改竄で降格。山東衛河の氾濫、書吏の増員禁止。河南新蔡の教匪朱麻子を巡撫程祖洛が捕らえた。四川果洛克番人の乱を提督桂涵が平定(羅思挙と並び「羅桂」と称された)。漕運の不正防止策、アヘン密輸監視の強化。
道光三年(1823年)
- 各省の未納地租の名目上の立替を禁止。永定河・北運河・漳河の氾濫。江南十七州県で大水害があった。
道光四年(1824年)
- 直隷の河工整備を命じた。彗星が出現。蘇州の五通祠を破却。黄河氾濫で河督張文浩が処罰され、両江総督孫玉庭も罷免留任となった。
道光五年(1825年)
- 獄卒の虐待を禁止。王鼎が軍機処入り。漕運糧船の水手による秘密結社(羅祖教系の潘安・老安・新安教)が旗丁を脅して金品を強要する弊害の対策を命じた。
道光六年(1826年)
- 海運を初めて試行。台湾の粤人黄文潤の乱に福建水師提督許松年が鎮圧に赴いたが、後に処理の不備で罷免された。台湾の残党は平定された。
道光九年(1829年)
- ベトナムの旧貨幣の通用を禁止。回教の宗教指導者アフンの政治関与を制限。皇帝は太后を奉じ盛京に謁陵。山東地震。
道光十年(1830年)
- 州県衙門の白役(雇員)を大幅削減。アヘンの国内流通取り締まりを強化。両淮塩政を廃止し総督管理に統合した。
道光十一年(1831年)
- 広東の黎族の乱を総督李鴻賓が平定した。淮北の塩の官督商運への転換。沿辺での阿片栽培を禁止。新疆で屯田制を開始。山東地震。票塩法(塩の自由販売制)を実施した。
道光十二年(1832年)
- 白陽・白蓮・八卦・紅陽等の邪教首犯を恩赦対象外とする規定を定めた。黄河の堤防決壊で河督張井が罷免。江西の会匪取り締まり強化。台湾嘉義県の陳弁の乱に討伐を命じた。
道光十三年(1833年)
- 陳弁を捕縛、台湾の乱を平定した。四川越嶲・峨辺の夷族の乱を平定した。雲南地震。
道光十四年(1834年)
- 峨辺十三支の夷族の乱を平定した。黄河・永定河の氾濫。四川峨辺夷乱により提督楊芳が降格された。
道光十五年(1835年)
- 曹振鏞が没した。試験の評価で些末な字体の誤りを重視し文体を停滞させ、言官の直言を封じたことが、後の内外の混乱の一因になったと評された(それでも文正と諡された)。山西趙城県の教匪の乱、峨辺夷乱、趙城教匪ともに鎮圧された。
道光十六年(1836年)
- 円明園三殿が火災に遭った。
道光十七年(1837年)
- 陝甘総督楊遇春が没した(数百戦を経て無傷、皇帝から「福将」と称された)。峨辺夷乱、山東塩務の巡撫管理化、吉林での採珠停止、四川涼山夷乱の平定があった。
道光十八年(1838年)
- 惇親王緜愷が違法な人物拘禁と俳優の隠匿で郡王に降格。荘親王奕𧷨・輔国公溥喜が尼寺でのアヘン吸食で爵位を剥奪された。旗人女性の纏足を禁止。貴州の謝法真の乱を総督伊里布が平定した。
道光十九年(1839年)
- 日食。河東河道総督栗毓美が没した(甎を用いる治水法を考案し後世の模範となった)。湖北提督羅思挙が没した(楊遇春・楊芳に次ぐ名将「羅必勝」と称された)。戸部侍郎文慶が科挙不正で罷免された。
道光二十一年(1841年)
- 河南祥符の黄河決壊で河督文沖が罷免、朱襄が代わり王鼎が東河工事を督した。林則徐が伊犁流罪から呼び戻され東河での事業に従事した。
道光二十二年(1842年)
- 湖北崇陽の鍾人傑の乱を平定した。天体異変。大学士王鼎が自殺した(治河の功を上げながら和議に反対し、諫死。遺書で穆彰阿を弾劾し林則徐の登用を薦めたが、穆彰阿はこれを恐れて遺書を隠し、別の上奏文にすり替えさせた)。江南堤防の氾濫。
道光二十三年(1843年)
- 海防の失策により将軍琦善・文蔚・奕経らが処罰・復職を繰り返し、御史陳慶鏞が人事の混乱を批判したことで一時罷免されたが、まもなく全員復職・昇進する一方で慶鏞自身は左遷され辞職した。雲南南甸の匪徒の乱を平定。河南中牟の黄河決壊で河督慧成が罷免された。日食。
道光二十四年(1844年)
- 中牟の決壊が再発し関係者が処罰された。台湾の洪協の乱、湖南耒陽の陽大鵬の乱がともに鎮圧された。湖北荊州の堤防決壊。各地で雹害・地震が起きた。
道光二十五年(1845年)
- 西寧の番族の乱で総兵応和が戦死した。江蘇の堤防決壊。
道光二十六年(1846年)
- 雲南永昌の回民の乱。東南各省で大地震。楊芳(楊遇春と並び「二楊」と称された)が没した。
道光二十七年(1847年)
- ビルマの辺境侵犯。永昌の乱が平定された。京師で地震。新疆カシュガルの回民の乱に対し布彦泰・奕山が討伐に赴いた。湖南乾州の苗族の乱を鎮圧した。
道光二十八年(1848年)
- 両広・湖南・江西の会匪取り締まり強化。官員の親族回避規定を整備。浙江沿海の海賊取り締まりを強化した。
道光二十九年(1849年)
- 四川瞻対の野番の乱を琦善が鎮圧した。江蘇・浙江・安徽・湖広で大水害。山東沿海の盗賊取り締まりを強化。正陽門箭楼が火災に遭った。
道光三十年(1850年)
- 日食。皇帝が崩御し、皇四子奕詝(咸豊帝)が即位した。享年六十九、廟号宣宗。