清史紀事本末回部・張格爾の役(回部張格爾之役)
道光帝の時代、浩罕(コーカンド)に亡命していた和卓木の子孫張格爾が、新疆の回部(イスラム教徒地域)で蜂起した経緯を描く。道光五年(1825年)の挙兵から喀什噶爾陥落、長齢・楊遇春による奪還、張格爾の捕縛を経て、道光十一年(1831年)の浩罕との和議成立までの約7年間を扱う。以後、清朝の西域における威勢は乾隆朝の水準まで回復しなくなった。
年表(5件)
- 宣宗
- 道光五年(1825年)張格爾が喀什噶爾近辺を襲撃し回部四城が蜂起した
- 道光六年(1826年)張格爾が喀什噶爾を陥落させ慶祥が自刃した
- 道光七年(1827年)楊芳が離間策で張格爾を捕縛し功により侯に封じられた
- 道光十年(1830年)浩罕王が張格爾の兄を擁して回疆に侵攻した
- 道光十一年(1831年)浩罕と講和が成立し通商が再開された
宣宗道光五年(1825年)
- 冬十月、大学士長齢を伊犂将軍代理とし軍務を統括させた。回部(イスラム教徒地域)の統治は乾隆朝の天山南路平定に遡る。かつての和卓木(ホージャ)家の子孫大和卓木波羅泥都の子薩木克と喀什噶爾の民は浩罕(コーカンド)に亡命していた。浩罕の可汗はモンゴル・チャガタイ家の末裔で、薩木克らを受け入れつつも中国との紛争を恐れ、逃亡者監視の役を申し出た。清朝は毎年銀一万両を与えて取り締まらせていた。嘉慶末年、参賛大臣斌静の失政で回民の心が離れ、薩木克の次男張格爾は浩罕に入って以来、諸部で信望を集めていた。張格爾は布魯特(キルギス)に投じ数百の兵を得て、この年八月に喀什噶爾近辺を襲撃した。布魯特の首長蘇蘭奇が事態を通報したが章京綏善に叱責され、憤って回民側についた。領隊大臣色普徵額がこれを撃破し張格爾はわずか三十騎で逃走したが、色普徵額は敵を深追いせず引き上げて中秋の宴を催した。捕えた八十余人は斌静が皆殺しにして口を封じ、逆に蘇蘭奇が謀反を扇動したと上奏したため、帝は疑いを抱き伊犂将軍慶祥に調査を命じた。斌静の回民虐待・略奪の罪状が明らかになり、京師に召還され永芹が後任となった。張格爾は再び兵を集めて塞を騒がせたが、永芹は撃退できなかった。九月、令隊大臣巴彥巴図が塞外に出兵したが敵と遭遇できず、布魯特の遊牧民の婦女子百余人を殺して帰還した。これに憤った布魯特の首長汰劣克が二千の兵で追撃し、巴彥巴図の軍は全滅した。これを機に回部四城の住民が一斉に蜂起し、長齢が慶祥に代わり伊犂を鎮守し、慶祥が永芹に代わり喀什噶爾で指揮を執ることとなった。
道光六年(1826年)
- 秋八月、張格爾が喀什噶爾を陥落させ、慶祥は自刃した。張格爾は開斉山路から回城に突入し先祖和卓の墓に参拝、協辦大臣舒爾哈善らが包囲したが突破された。帝は長齢を揚威将軍に任じ陝甘総督楊遇春・山東巡撫武隆阿を参贊として派遣したが、援軍集結前に張格爾は浩罕から精鋭安集延兵三千を得て喀什噶爾を陥落させた。慶祥は渾河で敗れ自縊、淩河・阿穆克登も戦死し、英吉沙爾・葉爾羌・和闐の三城も相次いで陥落、回民の多くが張格爾側についた。
道光七年(1827年)
- 春三月、長齢・楊遇春が喀什噶爾を奪還し張格爾は逃走した。前年十月に阿克蘇に至った長齢軍は托什罕河で勝利し、進軍を重ねて渾河北岸で回民十余万の大軍と対峙。折からの砂嵐と濃霧を活かし、楊遇春の進言で索倫の騎兵が下流に迂回する間、楊遇春自ら砲隊を率いて上流を強行渡河、砂塵と砲声で敵を混乱させ全軍が渡河、敵陣は総崩れとなり喀什噶爾・英吉沙爾・葉爾羌を回復した。
- 夏五月、楊芳が昆拉𫞩で回民を破り酋長玉努斯を討ち和闐を回復。張格爾は木吉から国外に脱出した。
- 秋八月、楊遇春・楊芳が塞外に出て張格爾を追跡したが、楊芳軍は塔爾克で浩罕軍と激戦して損害を出し、都凌河・色克精阿らが戦死。帝は諸将を叱責し楊遇春を召還、那彦成を欽差大臣として事後処理にあたらせた。
- 冬十二月、楊芳が喀爾鉄蓋山で張格爾の軍を大破した。張格爾は白山党の領袖で、喀什噶爾占拠時に黒山党を虐殺していたため黒山党に恨まれており、楊芳は懸賞と離間策を用い黒山党を通じ「官兵撤退」の偽情報を流した。これを信じて阿爾古回城に潜入した張格爾は事の露見後脱出を図るが追撃され、残兵三十とともに逃走中、布魯特人に捕らえられ軍前に送られた。この功で長齢は威勇公、楊芳は果勇侯に封じられた。
道光十年(1830年)
- 秋九月、回疆で再び乱が起こり、楊遇春を欽差大臣として軍務を統括させた。張格爾捕縛後、浩罕に張格爾の家族の引き渡しを求めたが拒否され、清朝は那彦成・楊芳に国境警備と浩罕との通商断絶を命じた。那彦成は安集延商人の国外追放・財産没収・大黄や茶の輸出禁止を実施したため、浩罕王摩訶末阿利は激怒し、張格爾の兄摩訶末玉素普を擁して喀什噶爾方面に大挙侵攻、諸城を占領した。事態を受け那彦成は罷免され、楊遇春らが派遣された。
道光十一年(1831年)
- 春正月、伊犂参贊大臣容安が援軍派遣を怠り遠回りしたため下獄、哈豐阿が後任となって敵を破り諸城の包囲を解いた。
- 冬十月、浩罕が講和を求め通商が再開された。浩罕は布哈爾との不和もあり玉素普も殺戮を好まなかったため撤兵、長齢は浩罕の申し出を受け通商再開を上奏、帝もこれを許した。和約では、両国の捕虜返還、和卓木一族の浩罕による監禁、通商再開・免税、没収財産の返還が定められた。
- 以後回疆は安定したが、二十七年には張格爾の子弟加他漢らが再挙して復讐を図ったものの、まもなく鎮圧された。
史論(編者曰)
- この戦役以降、中国の兵威は再び葱嶺以西に及ばなくなった。この条約における中国の譲歩は極限に達しており、乾隆朝のような武功の盛況を再現することはもはや不可能となった。