清史紀事本末兵額の増加(增加兵額)
乾隆三年の八旗養育兵拡充に始まり、各地駐防への増兵、乾隆四十七年の緑営実員大幅補充、嘉慶年間の白蓮教鎮圧に伴う新兵募集・増設、道光元年に至るまでの、清朝軍制における兵額増加策の推移を扱う。約85年間。
年表(19件)
- 乾隆三年(1738年)八旗の養育兵制度を拡充し各佐領に定員を設ける
- 乾隆四年(1739年)荆州駐防に養育兵四十名を新設
- 乾隆六年(1741年)殺虎口から綏遠城にかけて兵額を増加
- 乾隆七年(1742年)荆州駐防の養育兵を四百名増設
- 乾隆十年(1745年)江寧駐防に養育兵四百名を新設
- 乾隆十八年(1753年)養育兵の欠員補充比率を改め二万五千余名に増員
- 乾隆二十九年(1764年)綏遠城に養育兵を新設し支給米を増加
- 乾隆三十一年(1766年)伊犂駐防に養育兵二百四十六名を増設
- 乾隆三十二年(1767年)成都駐防に養育兵百四十四名を増設
- 乾隆三十八年(1773年)烏魯木斉駐防に養育兵二百八十名を増設
- 乾隆三十九年(1774年)杭州駐防に養育兵百二十八名を増設
- 乾隆四十四年(1779年)吐魯番駐防に養育兵四十八名を増設
- 乾隆四十七年(1782年)緑営兵の欠員六万余名を一挙に実員補充
- 嘉慶四年(1799年)苗族反乱後の兵員損耗を受け各省に新兵募集を命令
- 嘉慶九年(1804年)白蓮教鎮圧の郷勇をもとに湖北・陝西・四川に営汛を増設
- 嘉慶十年(1805年)満洲・蒙古八旗の養育兵二千二百五十名を増設
- 嘉慶十一年(1806年)京師八旗と各営の養育兵四千三百九十六名を増設
- 嘉慶二十年(1815年)青州駐防八旗から餘兵二百四十名を選抜
- 道光元年(1821年)太原城守尉駐防に養育兵四十名を追加選抜
乾隆三年(1738年)
- 八旗の養育兵制度を増設した。八旗の定員二十五万は入関後の人口増加により余丁が多く、無職の満洲人が生計に困窮していたため、世宗(雍正帝)の代に増員策として、雍正二年に満洲・蒙古・漢軍から計四千八百人を教養兵として選び、満蒙には月銀三両、漢軍歩兵には二両を支給する制度を設けていた。乾隆三年、これをさらに拡充し、満洲・蒙古の各佐領で養育兵十名、漢軍の各佐領で六名を確保する制度とした。
乾隆四年(1739年)
- 荆州駐防に養育兵四十名を新設した。
乾隆六年(1741年)
- 殺虎口から綏遠城にかけての兵額を増加した。
乾隆七年(1742年)
- 荆州駐防の養育兵を四百名増設した。
乾隆十年(1745年)
- 江寧駐防に養育兵四百名を新設した。
乾隆十八年(1753年)
- 養育兵の欠員補充比率を改め、恩賞分を含め従来の一万五千百二十四名から計二万五千二百十二名に増員、支給銀も年四十五万三千八百十六両に増加した。
乾隆二十九年(1764年)
- 綏遠城駐防に養育兵四百名を新設。満洲・蒙古の養育兵二万三百十五名に対する支給米を年一万六千百石余り増加した。
乾隆三十一年(1766年)
- 伊犂駐防に養育兵二百四十六名を増設した。
乾隆三十二年(1767年)
- 成都駐防に養育兵百四十四名を増設した。
乾隆三十八年(1773年)
- 烏魯木斉駐防に養育兵二百八十名を増設した。
乾隆三十九年(1774年)
- 杭州駐防に養育兵百二十八名を増設した。
乾隆四十四年(1779年)
- 吐魯番駐防に養育兵四十八名を増設した。
乾隆四十七年(1782年)
- 緑営兵の実員を大幅に増強した。各省七十一鎮の名目上の兵数六十四万に対し実際には六、七万の欠員があったため、乾隆四十六年に増兵議案を決定し、武職の給与・恩賞は別枠計上として、欠員をすべて実員に補充した。直隷四千七百七十名、山東千五百八十一名、山西二千五百九十五名、河南九百七十九名、江南五千十一名、江西千五百八十七名、福建四千七百五十六名、浙江三千三十九名、湖北二千三百八十名、湖南二千五百八十八名、四川四千二百七十四名、陝甘一万二千七百三十名、広東五千七百七十四名、広西二千三百三十四名、雲南五千四百六十名、貴州五千二百八十四名など、総計六万余名を一挙に補充し、年間新規軍費は約三百万両に達した。
嘉慶四年(1799年)
- 各省督撫提鎮に新兵の募集と実員補充を命じた。苗族反乱(苗変)以来、前線に動員された各省営兵の死傷・逃亡が多かったため、河南・陝西・四川・雲南を除く各省に不足数の一定割合(直隷・山東は五割、山西・甘粛・広東は四割、江西・広西は三割、貴州は七割)の募集を命じた。
嘉慶九年(1804年)
- 寧陝・陝安等の新兵に地価銀を貸与した。白蓮教の乱に際し、正規兵の動員が不便であったため募集された郷勇(新兵)をもとに郡県の営汛を増設した。湖北に襄陽提督・鄖陽総兵・道員を新設し兵三千五百を増加、陝西に五郎総兵(寧陝鎮と改称)を置き陝安鎮営・漢中協営など合計八千六百十七名を増兵、四川に綏定府副将を置くなど計千名を増兵した。特に寧陝・陝安の新兵には土地が険しく食糧が高いため一人あたり銀十両の地価を貸与し(総額八万六千百七十両)、開墾による生計確保を図った。嘉慶十五年冬に全額返済された。
嘉慶十年(1805年)
- 満洲・蒙古八旗の養育兵二千二百五十名を増設した。八旗人口の増加に対応し、五営の馬兵の一部欠員を八旗閒散人に振り替える措置を検討したが、身分上の配慮から代わりに馬二千匹を張家口の牧場へ移し、節約した馬乾銀(月五千両)を財源として、満洲各佐領に養育兵四名(計二千七百十八名)、蒙古各佐領に三名(計六百十二名)を新設した。
嘉慶十一年(1806年)
- 京師八旗満洲・蒙古および各営の養育兵四千三百九十六名を増設した。八旗人口増加への対応策として広儲司・造弁処各銀十万両、戸部銀五十万両の計七十万両を運用に充て、満洲各佐領に四名(半分佐領は二名)、蒙古各佐領に三名、圓明園護軍営・内外火器営に各三百名、健鋭営に百五十名を配し、内務府三旗にも各佐領四名(圓明園内府三旗六十名)、包衣三旗に三百二十四名を増設した。
嘉慶二十年(1815年)
- 青州駐防八旗の閒散壮丁から二百四十名を選抜し餘兵とした。額設馬甲千四百六十名・歩甲三百二十名の駐防地で人口増加に対応するため、馬価銀と司庫の余剰銀合計三万両を運用に充て、選抜された者に月銀一両を支給し、甲兵に準じて訓練させる制度とした。
道光元年(1821年)
- 太原城守尉駐防に養育兵四十名を追加選抜した。