清史紀事本末乾隆の極盛(乾隆极盛)

乾隆元年(1736年)から六十年(1795年)まで、盛世とされた乾隆朝の内政・文教・軍事の推移を概観する。旱害・水害への対策や朋党・貪官の摘発を重ねる一方、四庫全書など文化事業を進め、金川・準部・回部平定など「十全武功」を成し遂げる。晩年は嘉慶帝への禅位準備に至るまでの約60年間を扱う。

年表(20件)

乾隆元年(1736年)

  • 春、西北両路の駐屯兵を撤収させ、京師と各省の捐納(官職売買)の制度を停止した。
  • 夏、地方官に賢良方正の人材推挙を命じた。
  • 六月、四川巡撫王士俊を投獄した。雍正朝の厳格な政治への反動で寛大に流れ弛緩していた風潮を、王士俊が「先帝の政を翻すことばかりが評価される」と密奏で痛烈に批判したところ、帝は激怒しこれを処罰した(後に監候)。以後かえって法の運用は厳しさを増し、大獄が相次いで民を苦しめたという。

乾隆二年(1737年)

  • 夏、旱害により刑部に獄囚の見直しを命じ、傅爾丹・陳泰・岳鍾琪を赦免した。
  • 新進士に地方の利弊についての上奏を許した。
  • 秋、永定河が決壊。閏九月、直隷涿水県の拒馬河を浚渫した。

乾隆三年(1738年)

  • 旱害のたびに獄囚の見直しと群臣への意見具申を命じた。
  • 各省の水旱被害五分以上での租税免除の制度を定めた。
  • 江南で蝗害。冬、寧夏で地震があり新渠が水没、寶豊県治が水没した。

乾隆四年(1739年)

  • 春、治水家の嵇曾筠が没し、靳輔・齊蘇勒とともに河工の功労者として祠祀を命じられた。
  • 旱害への対応として求言・獄囚見直しを重ねて命じ、直隷・江南に捕蝗を命じた。
  • 冬、宗人府の告発により理親王弘晳を景山東菓園に幽閉した(安泰の邪術を用いた大逆の罪、安泰は絞刑)。

乾隆五年(1740年)

  • 直隷・山東・山西・湖南・広東等に石炭採掘の奨励を命じた。
  • 旱害への獄囚見直し、旗地の私売禁止を命じた。冬、『律例』と『一統志』の改訂が完成した。

乾隆六年(1741年)

  • 提督鄂善に賄賂受領の罪で自尽を命じ、弾劾した御史仲永檀を昇進させた。
  • 北方諸省に民間の水路開削を奨励し、山西学政喀爾欽を賄賂と不法行為の罪で処刑した。
  • 尚書徐元夢が没し、諡文定を賜った。
  • 冬、大学士張廷玉が兼務の辞退を願うも許されず。都御史劉統勲の上疏(張・姚両氏の官界寡占と大学士訥親の兼職過多を諫めるもの)を機に議論となったが、帝は許可しなかった(のち両者とも晩節を全うできなかった)。

乾隆七年(1742年)

  • 彗星出現。選抜(科挙)を十二年に一度と改めた。直言の士を挙げ台諫に備えさせた。文武郷試・会試の互試を停止した。

乾隆八年(1743年)

  • 河工に堪能な人材の推挙を命じ、『医宗金鑑』が完成した。
  • 旱害で求言を命じ、彗星が出現した。新任州県官の任用時に律例の口頭試問を課す制度を定めた。冬、直省に蝗害対策を命じた。

乾隆九年(1744年)

  • 大学士訥親に河南・山東・江南の営伍点検と河工・海塘の視察を命じた。
  • 旱害で獄囚見直し。大学士劉於義を保定に派遣し高斌と直隷水利を協議させた。冬、各省の刑事・財政年終集計の報告制度を定めた。

乾隆十年(1745年)

  • 会試の期日を三月に改め恒例とした。各省の文体是正を命じ、旱害で獄囚見直し。
  • 貴州大定府畢節県の赤水河開削を許可(張広泗の上奏による)、遵義府から四川重慶府への水路が開通。
  • 江南河工の捐納を停止。不法な刑具の使用を禁止。四川に国匪(白蓮教等)の厳重取締りを命じた。雲南金沙江上流の蜈蚣嶺などの水路開削を許可(張允随の上奏による)。

乾隆十一年(1746年)

  • 慶復に甘粛の営伍点検を命じ、のち武英殿大学士に迎えた。道府クラスの人材推挙を命じた。督撫の養廉銀を制定した。秋、日食。東南沿海で暴風・高潮。

乾隆十三年(1748年)

  • 夏、福建の商民の天主教入信を禁じた。浙江巡撫常安を貪婪の罪で処刑(総督喀爾吉の弾劾による)。
  • 皇后喪中に剃髪した罪で湖広総督塞楞額・知府金文醇を処刑、江南河道総督周学健・湖広巡撫彭樹葵・楊錫紱を革職、直隷城工の負担を科した。刑部尚書盛安も議罪が寛にすぎたとして死罪となった。
  • 秋、国朝の御璽二十五顆を定め、うち青玉璽など古来伝わる四璽以外は新たに篆刻し直した。冬、上奏文はすべて題本形式に統一するよう命じた。

乾隆十四年(1749年)

  • 秋、山西学政徳保の上奏により、歳試・科試での経書暗写の制度を定めた。

乾隆十五年(1750年)

  • 夏、日食に際し群臣に施政の欠を直言させた。

乾隆十六年(1751年)

  • 夏、日食。知県の三年行取制度を停止した。冬、苗人の額兵補充への登用を禁じた。

乾隆十八年(1753年)

  • 秋、銅山県の堤防決壊で工事の怠慢を咎め、同知李焞・守備張賓を処刑した。

乾隆二十年(1755年)

  • 春、日食。夏、南方で長雨、冬のように寒冷。秋、蝗害で綿・穀物が実らず。冬、地震。

乾隆二十一年(1756年)

  • 秋、革職者の捐納による復官を一般に許す制度を定めた。

乾隆二十二年(1757年)

  • 春、会試の答案様式を改定した。夏、内監于栄煥を巡検張若瀛への非礼を理由に黒龍江へ流刑とした。秋、雲貴総督恒文を属員への強要と家丁の不正の罪で自尽させた。冬、山西布政使蒋洲を国帑横領の罪で処刑した。有能な人材の登用を命じ、呂宋(ルソン)船の厦門貿易を許可した。

乾隆二十三年(1758年)

  • 夏、郷会試の第二場に性理論を追加した(言官呉龍見の上奏による)。冬、日食・月食が続けて起こった。

乾隆二十四年(1759年)

  • 春、彗星出現。夏、旱害で獄囚見直しと臣工の利弊具申を許した。

乾隆二十五年(1760年)

  • 夏、日食。

乾隆二十六年(1761年)

  • 春、紫光閣が落成し、功臣五十人の肖像を掲げた。夏、貴州の民苗間の結婚禁令を解いた。秋、減刑三回以上の受刑者への軽減措置を命じた。

乾隆二十七年(1762年)

  • 秋、督撫が同省の布政使に代理を委ねることを禁じた。日食。

乾隆二十八年(1763年)

  • 秋、松江府で暴風が三日続き作物が全滅したが、巡撫洪之傑は被害を隠蔽し、逆に豊作の嘉禾図を献上して表彰された。九月、日食。

乾隆三十年(1765年)

  • 甘粛で二度の地震。各省書院の院長制度を整え、成果のある山長を「院長」と改称した。冬、大挑(人材登用試験)の制度を定めた。

乾隆三十一年(1766年)

  • 冬、脱獄者の即時処刑を命じ、『会典』が完成した。

乾隆三十二年(1767年)

  • 夏、各省大計で藩司・臬司を督撫が直接考課するよう定めた。

乾隆三十三年(1768年)

  • 春、『御批歴代通鑑輯覧』が完成。秋、辮髪を密かに切る事件が江浙から直隷・山東へ広がり、取締り不十分な督撫多数が処分された。冬、台湾で黄教の乱、台湾道張珪を処罰した。

乾隆三十四年(1769年)

  • 夏、台湾の黄教は捕えられ、前総兵王巍は処置不適切の罪で処刑された。彗星出現。秋、東南で大風災、臨海の住民数万人が死亡。冬、彗星再出現。

乾隆三十五年(1770年)

  • 春、貴州巡撫良卿を法を曲げて収賄した罪で処刑。夏、旱害で獄囚見直し。侍郎裘日修を薊州・宝坻の捕蝗に派遣したが、成果不十分で革職された。

乾隆三十六年(1771年)

  • 夏、旱害で獄囚見直し。大学士尹継善が没し諡文端を賜った。四度両江総督を務め、三十余年にわたり人材登用に努めた人物とされる。

乾隆三十九年(1774年)

  • 春、聚衆結盟の罪を定めた。夏、旱害で獄囚見直し。秋、内監高雲従を閣臣于敏中との内通の罪で処刑、敏中も厳議に付された。日食。江南老壩口で河決、江南で地震。山東兗州で王倫の乱が起き平定された。冬、秋審での十回未決囚を緩決に改める規定を定め、各省に保甲法を実施させた。

乾隆四十年(1775年)

  • 夏、旱害で禮部に祈雨を命じた。秋・冬に日食二回。

乾隆四十一年(1776年)

  • 春、寧夏の廠地を測量し民の開墾を許可。夏、湖北沔陽州の堤防決壊。

乾隆四十三年(1778年)

  • 夏、京師・河南で旱害。閏六月、河南祥符県で河決。秋、錦県の生員金従善が皇太子擁立を進言する上疏をしたことを憎まれ処刑された。

乾隆四十四年(1779年)

  • 夏、直隷の漳河・淦河・沙河が同時に決壊。秋、寧寿宮が完成した。

乾隆四十五年(1780年)

  • 春、両金川の住民に薙髪を命じた。夏、正陽門城楼が焼失。江南睢陽県で堤防決壊。秋、永定河・山東汶河などで河決。冬、陳輝祖と大学士阿桂に海塘工事の計画を命じた。

乾隆四十六年(1781年)

  • 春、甘粛の回民蘇四十三らが新旧教派の争いから蜂起し知府楊士璣・副将新柱を殺害、河州を占拠。阿桂に鎮圧を命じた。夏、蘇四十三らを撃破し河州を回復。閏五月、『熱河志』完成。六月、邳睢で黄河南岸が決壊。海蘭察らが蘇四十三らを陣中で討ち取り、残党は華林寺に籠るも間もなく殲滅された。
  • 秋、陝甘総督勒爾錦、巡撫王亶望・王廷贊らが虚偽の蝗害報告や横領の罪で処刑され、陝甘・新疆の捐監制度は停止された。四川では国匪の反乱が鎮圧され、総督文綬は処置不十分で伊犁へ流刑、福康安が四川総督となった。冬、満州駐防兵の高齢退役帰京制度を定めた。

乾隆四十七年(1782年)

  • 春、江蘇で鳥銃取締りを命じ、『四庫全書』が完成、三部を揚州・鎮江・杭州の各文閣に分蔵した。夏、遼・金・元三史の改訳が完成。秋、月食。冬、浙閩総督陳輝祖を王亶望家産抄没時の宝物すり替えの罪で自尽させた。

乾隆四十八年(1783年)

  • 夏、体仁閣が焼失。秋、各省大挑分発の挙人を知県佐貳として任用する制度を定めた。冬、黄河沿岸への植柳と堤防付近の採土禁止を命じ、『古今儲貳金鑑』『貳臣伝』(明の降将劉良臣ら百二十余人を貳臣、呉三桂ら二十余人を逆臣として編纂)を命じた。

乾隆四十九年(1784年)

  • 夏、各省試用官員の赴任配慮を定めた。臨陣負傷した緑営退役者に全俸給を許す制度を定めた。甘粛の回民田五らが新教起義で蜂起し、李侍尭・剛塔に討伐を命じた。五月、田五は討ち取られたが処理不十分として李侍尭が革職、大学士阿桂・福康安・海蘭察が派遣された。秋、日食。江西巡撫郝碩を属員からの収賄強要の罪で自尽させた。『河源紀略』完成。反乱首謀者張文慶・馬四娃・李可魁らが討たれ乱は鎮圧、阿桂らに恩賞。八月、辟雍が完成。冬、各省官員の原籍五百里以内赴任を禁じる規則を定め、李侍尭・剛塔を処分した(李侍尭は死一等を減じ監候、剛塔は伊犂流刑)。

乾隆五十年(1785年)

  • 春、即位五十年を祝して大赦の詔を発し、千叟宴を催した(王大臣から蒙古貝勒・回部・朝鮮使臣・士商民兵の六十歳以上約三千人が参加)。文廟に参拝し辟雍で講学。夏、甘粛で地震。湖南巡撫陸耀が没した(『甘薯録』の著者として知られる)。冬、『一統志』および遼・金・元三史、『国語解』の改訂が続く。

乾隆五十一年(1786年)

  • 春、日食。大学士徐本・高斌、将軍伊勒図、総督方観承・薩載を賢良祠に合祀するよう命じた。秋、伊犂で地震。江北清江・淮関一帯で河決。両広総督富勒渾が家丁の不正を放置した罪で処罰された。冬、苗地の辺防強化を命じた。

乾隆五十二年(1787年)

  • 夏、湖南鳳凰庁属の苗人石満宜らの蜂起を伊徳禧が鎮圧。満蒙翻訳郷会試を五年一度と定めた。六月、山東睢州の河決。秋、江南周家溝一帯で河決。冬、葉爾羌・和闐の採玉を春季停止・秋季再開とする制度を定め、郷会試の五経輪番出題制を定めた。

乾隆五十三年(1788年)

  • 夏、旱害で減刑。日食。四川で横行する強盗(𠴱嚕)の名称表記を統一するよう命じた。秋、荆江の堤防決壊で府城が浸水。九月、各省に私設の牢屋・刑具の使用を禁じた。

乾隆五十四年(1789年)

  • 夏、州県による不法な刑罰使用を禁じた。冬、月食。順天挙人の再試験実施を命じた。

乾隆五十五年(1790年)

  • 春、八十歳の万寿を祝う詔を発した。夏、王平荘の堤防が大規模決壊し永城・宿州・霊璧一帯が浸水。

乾隆五十六年(1791年)

  • 春、直隷永定河の支流と山東馬頬河の浚渫を命じた。夏、各省の重大な訴訟は督撫が自ら審理するよう命じた。

乾隆五十七年(1792年)

  • 夏、旱害で減刑。各省の重大な訴訟審理制度を再度徹底させた。冬、『御製十全記』を頒布し西藏布達拉山の聖祖平藏碑の傍らに建碑。帝は在位中の二度の金川平定、二度の伊犂平定、回部・緬甸・台湾・安南・廓爾喀二度の勝利を「十全武功」と称し自ら「十全老人」と号した。

乾隆五十八年(1793年)

  • 春、東南沿海で赤い虫が大量発生。秋、旱害で減刑。冬、降雪なきため受刑者の減等を命じ、流星(天狗)が観測された。

乾隆五十九年(1794年)

  • 夏、直隷・山東で旱害。台湾で周全の乱、間もなく鎮圧。六月、贋銭(沙板・鵝眼等)の使用を厳禁。秋、永定河決壊で減刑を命じた。東南沿海で大風・高潮。冬、郷試の再試験を停止した。

乾隆六十年(1795年)

  • 春、日食・月食。夏、旱害で減刑。福建・浙江に洋盗の共同取締りを命じた。秋、皇十五子嘉親王顒琰を皇太子と定め、翌年を嗣皇帝嘉慶元年とすることを布告した。冬、翌年元日の譲位に先立ち天地・社稷・宗廟・奉先殿に告祭した。