清史紀事本末苗族・金川の征討(苗族及金川之征勦)
乾隆元年の貴州苗族平定(牛皮箐の合撃)から、乾隆十二年に始まる四川大小金川の土司討伐へと展開する。訥親・張広泗の敗死を経て傅恆・岳鍾琪が莎羅奔を降し、乾隆三十六年以降は郎卡・索諾木の再起に対し温福の戦死を挟みつつ阿桂が再征、乾隆四十一年の噶爾崖攻略で金川全域平定に至るまでの経緯。
年表(9件)
- 乾隆元年(1736年)経略張広泗が牛皮箐の苗寨を撃破し貴州苗族を平定
- 乾隆十二年(1747年)張広泗を四川へ転じ大金川の莎羅奔討伐にあたらせる
- 乾隆十三年(1748年)訥親・張広泗が敗れ処分され、傅恆を経略に任じる
- 乾隆十四年(1749年)莎羅奔が降伏し大金川平定、班師の詔
- 乾隆三十六年(1771年)郎卡の子索諾木の攻勢を受け温福・桂林に小金川討伐を命じる
- 乾隆三十七年(1772年)阿桂が四川総督となり小金川を攻略
- 乾隆三十八年(1773年)小金川降兵の急襲で温福が戦死、阿桂が改めて攻略
- 乾隆四十年(1775年)阿桂らが勒烏囲を攻略し噶爾崖を包囲
- 乾隆四十一年(1776年)噶爾崖を攻略し莎羅奔・索諾木が投降、金川全域平定
乾隆元年(1736年)
- 春、経略張広泗が兵を八路に分けて牛皮箐の苗寨を合撃し、これを撃破して苗族を平定した。苗族は四川では僰・生番、両広では僮・黎、湖南・貴州では猺、雲南では倮・野人と呼ばれる諸集団の総称で、風俗言語が異なるため中国は元明以来、宣慰・宣撫・招討・安撫等の土司や土府・土州県を設け世襲の首長に自治を委ねてきた。だが清代に入っても土官の苛斂誅求から苗族の反乱が絶えず、特に雲貴で顕著であった。雍正四年、鄂爾泰は雲南巡撫として「改土帰流」策(土司による統治を廃し中央から流官を派遣する策)を献策し、世宗はこれを大いに喜んで三省総督の印を授けた。鄂爾泰は哈元生・石礼哈・張広泗ら諸将を用いて雲貴の生苗地帯を次々平定し、瀾滄江以東の地を平定して普洱府を設置、広西の土官も相次いで印綬を返上するなど、五、六年で三省の辺防はほぼ定まった。世宗はその功を大いに賞し、鄂爾泰は武英殿大学士に、張広泗は湖広総督に転じたが、後任者は苗族統治を軽んじ、また徴糧の強行が反乱を招いた。乾隆十三年には清江・台拱一帯で苗族が蜂起し黄平以東を陥落させた。かつて鄂爾泰督軍時の苛烈な処断(捕虜の苗を八つ裂きにして木にかけたこと)への怨みが背景にあり、反乱側は死を賭して抵抗、鎮沅では知府劉宏度が惨殺されるなど激化した。討伐は滇・蜀・楚・粤四省の連合軍で行われたが、討伐派の哈元生と懐柔派の提督董芳、さらに改流策自体に反対する大臣張照との間で方針が割れ、数ヶ月成果がなかった。乾隆帝は張照・哈元生・董芳をすべて処罰し、張広泗を七省経略に任じて台拱の九股苗や清江下流の諸寨を攻略、さらに丹江・古州・郡匀・台拱一帯の大森林(牛皮大箐)に潜んだ残党を八路の兵で包囲し、千二百二十四の寨を焼き払い三百八十八の寨を赦して貴州の苗族反乱を平定した。この十年後に四川大金川の役が起こる。
乾隆十二年(1747年)
- 春、雲貴総督張広泗を川陝総督に転じ四川に駐屯させ、大金川の苗族討伐にあたらせた。金川は四川西辺の土司の一つで、古の冉駹の地。明代には剌麻教が広まり、大小金川流域を治める首長は小金川(攢拉)・大金川(促浸)に分かれていた。雍正元年、大金川の首長莎羅奔が西藏出征の功により金川安撫使に任じられて以来勢力を強め、乾隆十一年には婚姻策で小金川の首長澤旺を籠絡してその印綬を奪い、革布什咱・明正の両土司も侵略、中国の援軍まで撃退するに至った。功のあった張広泗が任に当たったが、大金川は険阻な地形と石造りの防御拠点(戦碉)に守られ、案内役に用いた漢人王秋と良爾吉(澤旺の弟)の裏切りもあり、副将張興・遊撃孟臣らが降番に誘殺されるなど攻略は数ヶ月にわたり難航した。
乾隆十三年(1748年)
- 夏、大学士訥親を経略とし、旧将岳鍾琪を提督として大金川へ派遣した。訥親は「碉に碉で対抗する」戦術に固執し多大な犠牲を出し、総兵任挙・副将賈国良らが戦死した。張広泗が用いた案内役良爾吉は莎羅奔と密通しており、軍の動静を漏らしていたため戦果は上がらなかった。冬、大学士傅恆を経略に任じ、訥親には死を賜り張広泗も処刑、傅恆は良爾吉・その情人阿扣・王秋の間諜を誅殺して情報漏洩を絶ち、包囲戦から直接中枢を衝く戦略に転換して陣容を一新した。
乾隆十四年(1749年)
- 夏、大金川の土司莎羅奔が降伏し、班師の詔が下った。傅恆は精鋭による速攻を上疏していたが、帝は長期の疲弊を案じ召還を命じた。既に岳鍾琪と分進していた傅恆軍は各地の敵拠点を攻略、岳鍾琪は西藏出征時に麾下だった莎羅奔の旧誼を利用して単騎で敵陣に乗り込み、莎羅奔以下を投降させた。大金川平定。
乾隆三十六年(1771年)
- 冬、四川総督阿爾泰を罷免し尚書温福・侍郎桂林を後任として小金川討伐に当たらせた。乾隆三十一年以来、莎羅奔の甥郎卡が大金川を継いで隣部と衝突を繰り返し、阿爾泰の九土司連合による包囲策も失敗、郎卡は小金川の綽斯甲布と結んでさらに勢力を強め、その子索諾木も小金川の僧格桑と攻守同盟を結んで諸土司を攻めた。帝は阿爾泰を罷免(のち賜死)し、温福・桂林に討伐を命じた。
乾隆三十七年(1772年)
- 夏、桂林を罷免し阿桂を四川総督とした。桂林・温福軍が小金川に迫るなか、桂林配下の薛琮の軍が孤立無援のまま壊滅(生還者わずか二百余人)、桂林はこれを隠蔽し弾劾罷免され、阿桂が代わった。冬、阿桂が小金川を攻略、温福を定辺将軍・阿桂を副将軍とし、僧格桑は大金川へ逃走した。
乾隆三十八年(1773年)
- 夏、小金川の降兵が木果木を陥落させ温福が戦死。阿桂を定西将軍に任じた。温福は大金川東境の木果木に駐留した際、油断して各路の兵を集めず、部下の諫言を退けて酒宴に耽り、士気は低下していた。敵の急襲を受けた守備軍は総崩れとなり、温福は捕えられ殺され、戦死者三千余・潰走者一万余、小金川は再び陥落した。冬、阿桂・明亮が改めて小金川を攻略し全域を回復した。
乾隆四十年(1775年)
- 秋、阿桂・豊伸額・明亮が大金川の勒烏囲を攻略し噶爾崖(括耳崖)を包囲した。乾隆三十八年末から三方面に分かれて進軍していた清軍は、莎羅奔・索諾木の勢力圏に迫り、僧格桑を殺してその屍を差し出す降伏提案も阿桂は拒否、勒烏囲を陥落させたのち三路軍が噶爾崖城下で合流し包囲を固めた。
乾隆四十一年(1776年)
- 春、阿桂らが噶爾崖を攻略し、莎羅奔・索諾木は投降、金川全域が平定された。四十余日の包囲の末、索諾木・莎羅奔は家族ら二千余人を率いて出降し、京師に献じられた。小金川の地は美諾庁(後の懋功)、大金川の地は阿爾古庁(現在の綏靖屯)として四川に直属させた。
史論(編者曰)
- 乾隆三十六年の再出兵から平定までに得た地はわずか千里、動員兵力三万に満たないにもかかわらず、五年にわたる出兵で国帑七千万両を費やした。険阻な地形と土着兵の決死の抵抗という事情はあるものの、当時の清朝の軍備が実際には頼りにならず、将帥の戦略も評価に値しないものであったことが窺える。にもかかわらず皇帝は陵墓に参拝し碑を刻み、太学・闕里(孔子廟)へも巡幸して戦勝を盛大に誇示した。その是非は問われるべきであろう。