清史紀事本末兄弟の猜忌と大臣の粛清(兄弟猜忌及大臣逐戮)
康熙六十一年(1722年)の雍正帝即位から雍正八年(1730年)の允祉禁錮に至る9年間、即位当初の兄弟懐柔策から一転して允禩・允禟・允禵ら政敵となった兄弟や、年羹堯・隆科多ら功臣が次々と粛清されていく過程を描く。
康熙六十一年(1722年)
- 冬、世宗(雍正帝)が即位し、貝勒胤禩・十三阿哥胤祥・大学士馬斉・尚書隆科多に総理事務を命じ、撫遠大将軍の十四阿哥胤禵を京に呼び戻した。胤禩を和碩廉親王、胤祥を和碩怡親王、胤祹を多羅履郡王、故太子胤礽の子弘晳を多羅理郡王に封じた。
- かつて胤礽が監国中に人望を得られず廃立を繰り返したこと、その間諸皇子が儲位を狙って暗躍したことを振り返り、世宗は最も有力な胤禩を懐柔するため親王に封じて政務に参与させ、王党の分裂・弱体化を図ったとする。
- 胤禵については、西寧出征時に西北の人心を集めていたことを警戒し京に召還、代わりに胤禟を軍前に派遣した。
- 編修陳夢雷父子は誠親王への接近を理由に関外へ再度流された。諸皇子の名の一字を「允」字に改めさせた(世宗の御名を避けるため)。
雍正元年(1723年)
- 侍衛・官員が諸王の邸に私的に出入りすることを禁止。
- 内大臣勒什亨を西寧に派遣し允禟を監視させたが、允禟の不満の言を報告しなかったとして勒什亨も譴責された。
- 輔国公阿布蘭は不敬な振る舞いや碑文の不備により貝勒への昇進を取り消され佐領も没収された。
- 貝子允禵は湯泉に留め置かれ、理郡王弘晳は鄭家荘に移された。允禵は郡王に昇進しつつも「心志高傲」と戒められた。
- 冬、履郡王允祹の爵位が剥奪され、貝子の位に戻された。
雍正二年(1724年)
- 郡王允䄉は使命の遷延を理由に爵位を剥奪され宗人府に禁錮。允禵の子弘春も爵位剥奪。
- 允祹は冊封の金冊の誤りで鎮国公に降格。貝勒蘇努・内大臣徳寧・刑部尚書七十が諸王への荷担を理由に流罪。
- 郡王允禵は景陵の守備に転じさせられた(西藏での功績により中外の声望が高く、それを警戒されたため)。
- 冬、刑部尚書阿爾松阿が藩邸との交通を理由に流罪。世子弘晟(允祉の子)は閑散宗室に降格。裕新王保泰も廉親王一派として爵位剥奪。故太子允礽が薨去し、和碩理親王を追封された。
雍正三年(1725年)
- 二等公鄂倫岱が廉親王一派として流罪。
- 夏、年羹堯が川陝総督・大将軍の任を解かれ杭州将軍に転任。年羹堯は藩邸以来の側近で、西藏・青海・荘浪平定の功により極めて厚遇されていたが、允禵の内情探索を命じられても素直に報告しなかったため皇帝の不満を招いていた。「朝乾夕惕」の語を賀表で誤記したことを口実に、功績への評価を翻して降格させられた。
- 年羹堯の子や隆科多の子も相次いで爵位・職を剥奪。隆科多も年羹堯を庇ったとして太保銜を剥奪され、年羹堯もさらに杭州将軍職も解かれた。
- 允禟は属官による民への暴行を理由に爵位剥奪。輔国公普照(年羹堯の妻の叔父)も爵位剥奪。年羹堯は逮京され死罪と議定された。
- 冬、四川巡撫蔡珽の告発を機に、九十二か条の大罪が列挙され、皇帝は年羹堯に自裁を命じた。子の富は斬首、他の子は辺境へ流罪、妻子・親族も広く連座処罰された。父の遐齡は大学士朱軾の弁護により死罪を免れた。
雍正四年(1726年)
- 允禩・允禟・蘇努・呉爾占が宗籍から除かれ黄帯子(宗室の証)を剥奪された。允禩は民王に格下げされ、妻も福晉の身分を剥奪された(かつて妻の実家が封王を皮肉ったことを皇帝が根に持っていたため)。
- 隆科多は界務処理のためアルタイ地方に左遷。かつて皇帝の即位に功があり厚遇されていたが、年羹堯の公爵剥奪を怠ったとして疎まれ、河南巡撫田文鏡の幕客の弾劾により失脚した。
- 允禩・貝子魯賓・簡親王雅爾江阿・鎮国公永謙が除爵され、允禩・魯賓は高牆に監禁(允禩・允禵への荷担が理由)。
- 允禩の名を「阿其那」、允禟の名を「塞思黒」(満洲語で豚・犬の意)と改めさせた。大学士徐元夢が兄弟の情を訴えて助命を嘆願したが、逆に降格された。錢名世も「名教罪人」の額を掲げられ処罰された。
- 夏、允禵とその子白起が拘引され寿皇殿に禁錮された。鄂倫岱・阿爾松阿が処刑され、蘇努・七十は戮屍、他の連座者も監禁処分。
- 秋、允禟は保定への護送中に病死。允禩(阿其那)も宗人府での監禁中に病死したと報告された。冬、塞思黒(允禟)の妻も実家に追放され厳しく監視された。
雍正五年(1727年)
- 冬、隆科多が暢春園外に禁錮された。允禩らの名を宗籍から除く作業に際し、輔国公阿布蘭に王牒の底本を密かに保存させていたことが発覚し、四十一か条の罪状で正法が議されたが、暢春園外に建てた家屋に永久禁錮とされた。子の岳興阿は革職、玉柱は黒竜江へ配された。
- 冬、将軍貝勒延信も暢春園外に禁錮された。允禩や阿霊阿を称賛する発言や、允禵・年羹堯の罪状を実直に報告しなかったことが理由。
雍正六年(1728年)
- 夏、誠親王允祉が郡王に降格された。御前で王大臣を叱責し臣礼を欠いたことが理由。皇帝は「唯一残る兄」であることから寛大に郡王に留めたが、子の弘晟は宗人府に厳しく拘禁された。
雍正八年(1730年)
- 夏、允祉の王爵が剥奪され景山永安亭に禁錮された。怡親王(允祥)の喪に際して悲しむ様子がなかったこと等が理由とされ、本来は処刑相当とされたが寛大な処置で拘禁にとどめられた。これ以降、皇帝から猜疑された兄弟・諸王・大臣は次々と粛清され、姿を消していった。