清史紀事本末朋党の厳禁(嚴禁朋黨)
雍正帝が即位直後から繰り返し発した朋党禁止の訓戒を、康熙末年の皇子擁立争いに始まる派閥抗争の記憶とともに辿る。胤禩(廉親王)・胤禟らの旧党や隆科多・年羹堯の残党への処分、李紱・蔡珽・謝済世と田文鏡の対立事件などを経て、雍正七年に至るまで科道官の言論統制にまで及んだ、雍正朝一代を貫く朋党抑制策の経緯。
年表(6件)
- 雍正元年(1723年)即位した世宗が乾清門で朋党の悪習を戒める訓示を発する
- 雍正二年(1724年)帝が『朋党論』を著し群臣に頒布、皇子党粛清の弊害を諭す
- 雍正三年(1725年)鄂倫岱を流刑とし八旗に家人の結党を厳禁、忠勤の将帥を加増
- 雍正四年(1726年)胤𥜥らの朋党処分を示し、御史謝済世を田文鏡弾劾の罪で流刑
- 雍正五年(1727年)李紱・蔡珽を投獄後赦免、大将軍延信を党与営私の罪で罷免
- 雍正七年(1729年)科道官の輪番上奏を命じ、密奏漏洩の邱尚志・李元直を処罰
雍正元年(1723年)
- 即位した世宗(雍正帝)は乾清門で聴政を始めるにあたり群臣に対し、明末に始まった朋党の悪習を今なお絶えていないとして、繰り返し厳しく戒める訓示を与えた。
- 康熙朝末期、諸皇子の寵愛をめぐって群臣が派閥を組み擁立運動を行った経緯が振り返られる。索額図は胤祁方、佟国維は胤𥜥方につき、隆科多・費揚古らは雍正帝(当時の皇子)に忠誠を尽くすなど、数十年にわたり皇室を分裂させる朋党の弊害があったとする。
- 康熙四十年の廃太子事件でも胤𥜥が処罰され、聖祖(康熙帝)は晩年これを深く憂い恨みを抱いたまま崩じたとされる。即位した雍正帝はこの党派を解消することを施政の眼目とし、聴政の当初から諸王大臣に繰り返し訓戒した。
雍正二年(1724年)
- 帝は『朋党論』を著して群臣に頒布した。即位以来、皇子党の粛清を急いだ結果、人心が動揺し派閥意識がかえって深まったことを憂い、輿論の是非と朝廷の賞罰を一致させることで朋党の根を絶とうとした。宋の欧陽脩が説いた「君子に朋あり」論を批判し、君臣が同心一体であるべきことを説く内容である。
- 王大臣が謹んで奉行する旨を上奏すると、帝はそれが衆意によるものか一部の意向かを問い質し、実行を伴わない空言を戒めた。
- 帝は宗室内の対立が讒言によって助長されている実情を挙げ、胤祁・胤褆・胤𥜥・胤禟・胤禵らの過失と、かつて胤𥜥を太子に推した諸臣の非を数え上げて諸王宗室を訓戒した。
- 冬、工部郎中岳周の欠税を胤𥜥が密かに肩代わりしたことが人心収攬とみなされ、帝は胤𥜥を「狡詐にして結党営私」と厳しく非難し、諸臣がその術中に陥らぬよう繰り返し諭した。工部・上駟院などの官員にも同様の警告を発した。
雍正三年(1725年)
- 春、公爵鄂倫岱を胤𥜥への私的な結党を理由に奉天へ流刑とした。帝は骨肉の情から深追いを避け、首謀者一人を遠ざけることで事を収めようとしたが、以後もし附和する者があれば重罪に処すと通告した。
- 八旗に対し家人の結党を厳禁する通達を出し、婚礼・宴席等の私的な集まりも家主への届出を義務付けた。
- 工部が製した阿爾泰向け兵器の粗悪さを機に、帝は廉親王胤𥜥と自らの不和を諸王大臣の前で嘆き、諸臣がその非を悟れば党与は自然に解消すると説いた。
- 隆科多・年羹堯の罪により、両者に連なる者は速やかに党与を解き改心するよう命じ、違反すれば逆党として厳罰に処すとした。
- 朋党に与しない忠勤の将帥(岳鍾琪・高其倬・楊宗仁・呉陞・魏経国・孔毓珣・齊蘇勒ら)には官位を加増した。
- 孔子の後裔である衍聖公孔伝鐸が『聖諭広訓』『朋党論』の頒布を願い出たが、帝は「孔子の子孫に朋党に与した例はなく、頒布の必要はない」と答えた。
雍正四年(1726年)
- 帝は乾清宮の宴で群臣に、年羹堯・隆科多の轍を踏まぬよう訓戒した。
- 胤𥜥・胤禟・胤䄉・胤禵らが鄂倫岱・阿爾松・阿蘇努・七十・拉錫・普奇・揆敘・阿霊阿らと結んだ朋党について、かつて胤𥜥を太子に推挙し、胤禟の器量を称揚するなどの不法があったとして、それぞれ処罰済みである旨を諸臣に示した。
- 冬、御史謝済世を阿爾泰へ流刑とした。河南巡撫田文鏡が属吏黄振国・邵言綸・汪諴・関敶らを誣告し、直隷総督李紱がこれを面責したことを機に、田文鏡は李紱と黄振国が結党して報復を図っていると密奏。李紱もまた田文鏡を弾劾した。謝済世が田文鏡の十の罪を上疏すると帝は激怒し、九卿科道を集めて審問させたが、謝済世は「田文鏡の悪は天下周知、自分は孔孟の教えに従ったまでで、指嗾者を問うなら孔子孟子しかいない」と抗弁した。御史陳学海も自ら関与を名乗り出るなど騒然となり、結局訊問は取りやめられ、謝済世は罷免のうえ流刑となった。
雍正五年(1727年)
- 秋、工部右侍郎李紱と奉天府尹蔡珽を京師へ召還し投獄した。かつて李紱は「四巡撫論」で楊名時・陳世倌・自身・蔡珽の四人を痛烈に批判されたことがあり、田文鏡弾劾の背後にいるとみなされ二人とも死罪と議定されたが、のち寛典に処され赦免された。処刑寸前に「田文鏡の良いところを知っているか」と問われた李紱は「死んでも知らない」と答えたという逸話が残る。蔡珽の清廉な人柄と、以前藩邸時代の雍正帝からの誘いを固辞した経緯も語られる。
- 冬、大将軍貝勒延信を党与営私の罪で罷免・監禁した。帝は蘇努・阿霊阿・鄂倫岱らの結党の罪を列挙し、舜が共工・驩兜を処罰した故事、孔子・易経の言を引いて、朋党の弊害を厳しく戒める諭旨を発した。
雍正七年(1729年)
- 科道官に対し、上奏は文武大臣同様に輪番で行うよう命じた。科道官が言官の権を頼んで大臣に結託し朝旨に反対する風潮を憂慮した措置で、密摺による上奏を許した後、言官の権限濫用を恐れて再び通常の上奏に戻すなど対応が二転した。この結果、科道官はかえって沈黙しがちになり、帝は職務放棄だとして重ねて訓戒した。
- 秋、給事中邱尚志と御史李元直の俸給を罰した。尚志は密奏内容を漏洩し、元直は他人の密奏内容を探った上で自らも上奏するなど、朋党的な振る舞いとみなされたためである。以後、密奏の内容を漏らした者は厳しく糾明すると布告した。
- 冬、翰林・詹事・科道の諸官に朋党の悪習を戒め、李紱・蔡珽が田文鏡を害そうとしてかえって自ら害されたことを教訓とするよう諭した。科挙出身の官員に対しても党与の結習を去り公正に職務にあたるよう命じた。科挙出身でない田文鏡が常々科甲出身者を信用ならないと非難していたことも背景にある。