清史紀事本末雍正帝の英察(雍正英察)

雍正元年(1723年)の即位・綱紀粛正から雍正十三年(1735年)の崩御に至る13年間、雍正帝の治世の特徴(吏治の刷新、地丁銀制の全国導入、儲位密建法の創始、賤民身分の廃止など)と、晩年の祥瑞への傾倒・道教への沈溺を描く。

年表(13件)

雍正元年(1723年)

  • 春、皇帝は督撫提鎮以下の文武官に十一道の訓飭の諭旨を頒布した。藩邸時代に政治の腐敗を見て即位早々に綱紀粛正を図ったもの。
  • 翰林詹事官の職務不適格者を解任、幕客の氏名を報告させる制度を定めた。
  • 山西・陝西の教坊楽籍(明の建文帝の遺臣に由来する賤業身分)を廃止し、良民に戻した。
  • 直隷巡撫に、旗人や皇荘による地方への迫害を密奏させる制度を設けた。
  • 孔子の先祖に王爵を追封。江南の大旱に対応。
  • 隆科多・王頊齢を明史監修官、徐元夢・張廷玉・朱軾らを総裁官として明史編纂を進めさせた。湖南に試院を建て、湖広郷試を分闈することとした。
  • 五爪龍紋の紗緞の着用を禁止。
  • 秋、皇帝は乾清宮で建儲について諭旨を発し、四子弘暦(後の乾隆帝)の名を秘書に封じ「正大光明」の額の裏に置く「儲位密建法」を創始し、以後歴代の家法とした。
  • 律例の編纂を命令。紹興府の惰民籍(賤業身分)を廃止。
  • 冬、閩督覚羅満保の上言により、天主教の宣教師を澳門に移し、教堂を公所に改めさせた。

雍正二年(1724年)

  • 満洲人の割筋刑(脚の筋を切る刑)による処罰は別に上奏させる慎重な扱いとした。
  • 聖祖の上諭十六条をまとめた『聖諭広訓』を頒布。
  • 『大清会典』の編纂を命令。各都市に普済堂を設置させた。
  • 宗室・八旗子弟の教育のため宗学・覚羅学・咸安宮官学・景山官学・八旗官学を新設。貴族の学校教育制度の始まりとなった。
  • 曲阜の孔子廟が落雷で焼失し、修復を命じた。
  • 八旗の無業遊民対策として井田制を試行し、内務府の余地・官有地を分配して共同耕作させた。
  • 田従典を協理大学士とする。東南で海嘯(高潮)。損納(売官)事例を停止。山西の丁銀を田畝に組み込んで徴収する制度(地丁銀制)を導入。
  • 前明宗室の子孫朱之璉を一等侯に封じ、明の諸陵の祭祀を担わせた(明の遺民の不満を鎮める狙い)。
  • 兵民の葬儀での過度な演戯の慣習を禁止。

雍正三年(1725年)

  • 固安県の官有地に井田を設け、八旗の無業者に耕作させた。
  • 日月合璧・五星聯珠の吉兆を史館に付し、景陵に祭告。
  • 浙江杭州府・江南華亭等県の海塘を修築。蘇松の税糧を減免。台湾の複数の生蕃社が帰順。
  • 怡親王允祥らが直隷の水利・営田について上奏し、皇帝はこれを嘉納した。
  • 孔子の諱を避け、「丘」の字に偏旁を加えて「邱」と書かせる制度を定めた。

雍正四年(1726年)

  • 黄銅器皿の製造を厳禁し、既製品は官が買い上げて廃棄させた(銭貨の私鋳・毀損の防止)。
  • 雲南の地丁銀を田畝に組み込む制度を導入。
  • 河南巡撫田文鏡が献上した多穂の嘉禾を吉兆として褒賞。
  • 冬、黄河が河南から江南桃源県まで二千里にわたり澄み渡り、三旬余り続いたとして、関係官に加級・記録の恩賞。

雍正五年(1727年)

  • 会試の実施時期を三月に改める制度を定めた。
  • 関督高其倬の上奏により海禁を再開(福建・興化・漳州・泉州の人口過密対策)。
  • 安徽の伴档・寧国府の世僕(主従関係の身分制)について、契約が確認できないものは世僕とみなさず解放する制度を定めた。
  • 川陝総督岳鍾琪が建昌・冕山の異民族を鎮撫。八旗の射撃優秀者に褒賞。
  • 各省の丁銀を田畝に組み込む地丁銀制度を全国的に導入。

雍正六年(1728年)

  • 安南(ベトナム)との国境紛争について、当初は自国領への回収を図ったが、安南側の懇願により結局四十里を返還。
  • 四川越巂衛の番民、木里の喇嘛勢力が内附。
  • 河南巡撫田文鏡を河東総督に昇進させ河南・山東二省を管轄させたが、これは特例とし先例とはしないとした。
  • 閩粤の官吏の郷音(訛り)対策として正音書院を建てさせた。

雍正七年(1729年)

  • 雲南で「卿雲」(吉兆の雲)が現れたとして督臣鄂爾泰に加銜。ある地方官が「私は近眼で見えない」と皮肉ったという逸話も伝わる。
  • 靳輔・斉蘇勒を合祀する河神祠を黄河沿いに建立。
  • 広東沿海の蜑戸(水上生活民)の籍を廃止し保甲に編入。雲南の白崖郷で吉祥の泉が湧いたとの報告があった。

雍正八年(1730年)

  • 直隷総督唐執玉が房山での鳳凰出現を上奏(吉兆報告)。
  • 江蘇常熟・昭文の丐戸籍(賤業身分)を廃止し編氓(一般民)に編入。江西・浙江・福建の棚民も保甲に編入。
  • 甘粛での卿雲出現、黄河の澄清などの吉兆報告が相次いだ。
  • 京師で大地震。白雲観の道士賈士芳が妖術めいた言辞(皇帝への呪術的施術)で処罰され、一族も連座処刑された。一方で道士婁近垣は祈祷で功があったとして正大光明殿への出入りを許され、妙応真人に封じられた。
  • 煙禁(アヘン取締り)を頒布。アヘンは英国船によりインドから輸入され始めていた。京師・江南で地震が続いた。

雍正九年(1731年)

  • 広東の一部の生黎(少数民族)が内附。旱魃のため刑獄を清理。冬、日食。

雍正十年(1732年)

  • 京師の旱魃で刑獄を清理。江南で大風・海嘯。景陵で瑞芝(吉兆の霊芝)出現を史館に付す。

雍正十一年(1733年)

  • 各省に書院設立を命令。山東で瑞麟(吉兆の麒麟)出現の報告。民間刊行物での胡・虜・夷・狄等の忌避字の使用を禁止(避諱への皇帝自身の批判的態度も記される)。四川鹽亭県でも瑞麟出現の報告。

雍正十二年(1734年)

  • 元日の立春に雪が降ったことを吉兆として喜んだ。河南学政兪鴻図が収賄で処刑された。江南で大風・海嘯。

雍正十三年(1735年)

  • 雲南・広東で卿雲出現、山東寧陽県で麒麟出現の報告が相次いだ。文武生員の入伍を禁止。烈婦の旌表制度を停止。
  • 秋、皇帝崩御(享年五十八、諡は憲、廟号は世宗、泰陵に葬られる)。皇四子弘暦(乾隆帝)が即位し、荘親王允禄・果親王允礼・大学士鄂爾泰・張廷玉が輔政。
  • 道士張太虚・王定乾らを追放。内監に政事の妄言・外部情報の流入を厳禁。皇帝崩御に際し不審な言動(鄂爾泰が急いで参内した様子など)から暗殺説も流れたことに触れる。

史論(編者曰)

  • 世宗(雍正帝)は敬天信神を自称し祥瑞を好んだ。藩邸時代に兄弟の暗闘を経て即位後は次々と諸王を粛清する一方、次第に長生を求めて道教に傾倒した。李衛・田文鏡らが賈士芳・婁近垣ら道士を推挙し、祈祷が盛んになり、封疆大吏も瑞祥(吉兆)の報告を競って行った。
  • 世宗は表向き謙虚を装いつつも内心これを喜び、婁近垣を妙応真人として厚遇した。賈士芳が処刑された後も張太虚・王定乾らが引き続き宮中に出入りした。群臣は世宗の猜疑と誅罰を恐れ誰も諫めなかった。
  • 乾隆帝の即位後にようやく道士らは追放されたが、世宗の在位十三年は用兵・蓄財・神仙土木の事業で国力を消耗した一方、権力を掌握していたため治世は安定し、漢の武帝・明の世宗(嘉靖帝)に劣らぬ英断があったとも評される。しかし後継が弱体化し義和団の乱を招き、列強の侵入で国運が傾いたことに繋がったとし、「作法於涼、為子孫常」(悪しき先例は後代に及ぶ)と戒める。