清史紀事本末治河の政策(治河之政策)

康熙九年(1670年)の黄河決壊から康熙四十七年(1708年)に至る約38年間、黄河・淮河・運河の氾濫対策を巡る治水政策の変遷を描く。王光裕・靳輔・于成龍・張鵬翮ら歴代河道総督の治水策と、それを巡る朝廷内の路線対立(減水壩策と海口浚渫策など)、皇帝の度重なる南巡視察を通じて、両河がようやく安寧に至るまでを記す。

年表(23件)

康熙九年(1670年)

  • 夏、黄河が帰仁堤で決壊し、淮安・揚州一帯の田畑が水没した。

康熙十年(1671年)

  • 冬、桃源県で河が決壊し、民堤二百五十丈が破壊された。河道総督王光裕が人夫を募って淮陽の襄河を浚渫することを上奏し、許可された。

康熙十一年(1672年)

  • 侍衛の呉丹・学士の郭廷祚に河工の視察を命じ、図を作成して献上させた。
  • 清水潭で河が決壊し、高郵・宝応など十八の州県衛が被災した。

康熙十六年(1677年)

  • 王光裕は治水の功がないとして解任され、靳輔が河道総督となった。
  • 靳輔は治河八策(清江以下の浚渫と築堤、洪澤湖下流の引水、堤防の増強、決口の封鎖、清水潭決口の修復による漕運確保、経費計画、冗員整理、巡河官兵の設置)を上奏し、朝議の反対を押し切って実施が認められた。

康熙十七年(1678年)

  • 碭山県・蕭県で河が決壊した。
  • 靳輔は高家堰の石工の嵩上げと戧堤の増築、減水壩の増設、清口を閉じて新河を開く計画などを次々に上奏し、実施した。

康熙十八年(1679年)

  • 靳輔は清水潭沿岸の堤防修築が完了し、七州県の田畑が水没を免れたと報告した。
  • また淮河東岸一帯(山陽・宝応・高郵・江都)の水害の経緯を、明代の河臣潘季馴の治水と比較しつつ論じ、翟家壩の決口合流工事の完成と、水が引いた河西の湖沼の開墾計画を上奏した。

康熙二十一年(1682年)

  • 蕭家渡の決壊により靳輔が京へ召還された。布政使崔維雅は靳輔の治水法を批判する上書をしたが、靳輔はこれに詳細に反論し、皇帝も靳輔を支持した。
  • 尚書伊桑阿の視察で不備な堤工が指摘され、靳輔の解任・重罰が議されたが、皇帝は工事の中断を恐れて靳輔を戴罪のまま留任させ、靳輔が現地で督修すると決口はほどなく塞がり、水は旧道に戻った。

康熙二十二年(1683年)

  • 靳輔が蕭家渡の工事完成と黄河の旧道復帰を報告し、優詔により職を回復した。

康熙二十三年(1684年)

  • 皇帝が南巡し泰山に登った後、黄河北岸を視察。天妃閘の急流を見て草壩に改めさせ、七里閘・太平閘を増設して水勢を分けさせた。
  • 高家堰も視察し、靳輔に堤防維持の重要性を諭した。皇帝は満足し、詩を賜い、御舟・御用の帷幙を下賜した。

康熙二十四年(1685年)

  • 靳輔は黄河南北岸の減水閘の増設、堤防の強化、歳修計画などを次々に上奏し許可された。
  • 河道総督靳輔と按察使于成龍が京に召され、河工方針(大河を開削し高堤を築くか、海口の故道を浚渫するか)を巡って廷議したが意見が対立。大学士・九卿は靳輔案を支持したが一部は于成龍案を支持し、視察の結果、開海口には益がないとされた。

康熙二十五年(1686年)

  • 礼部尚書湯斌が下河の浚渫を上奏し、侍郎孫在豊が担当を命じられ、靳輔の議は退けられた。

康熙二十七年(1688年)

  • 靳輔は中河の完成と遥堤の増築を上奏したが、御史らが治水無功として弾劾し、靳輔は罷免され、幕客陳璜も処罰された。
  • 靳輔は京で于成龍・慕天顔・孫在豊による陥害を弁明し、実際の費用が朝廷の見積りの半分以下で済んだことを訴えた。皇帝は改めて調査を命じ、于成龍の私怨を疑い靳輔を擁護する姿勢を示した。

康熙二十八年(1689年)

  • 張玉書らの視察報告と靳輔の意見が食い違い、河工の是非が定まらぬまま、皇帝自ら済南から中河を視察し、鎮口閘・微山湖などの支河口の開削を命じた。
  • 杭州・銭塘・淮安を巡り高家堰の堤防を視察し、靳輔の功績を認めて官位を回復させた。

康熙三十一年(1692年)

  • 王新命が罷免され、靳輔が再び河道総督となった。靳輔は新たな水門の建設や黄河両岸の植柳・種草を次々に上奏したが、まもなく病没(享年六十)。文襄と諡された。
  • 皇帝は靳輔の功績、特に中河の開削を高く評価した。その後、于成龍が河道総督となった。靳輔在任中に上奏した清口・高堰・南北両岸の隄工に関する総合方針も紹介された。

康熙三十三年(1694年)

  • 于成龍の上奏(増員・夫役免除等)が九卿の審議で不適とされ、皇帝に靳輔批判や減水壩の可否についての矛盾を詰問され、革職留任・戴罪の処分を受けた。

康熙三十八年(1699年)

  • 皇帝が皇太后を奉じて南巡し河工を視察。于成龍に測量・製図を命じ、洪澤湖の水勢や靳輔の減水壩策の問題点を論じ、清水による淤沙の洗い流しを提案した。

康熙三十九年(1700年)

  • 于成龍が没し、張鵬翮が河道総督となった。張鵬翮は攔黄壩の撤去と河道浚渫の完了を報告し、攔黄壩を大通口と改称すること、河神廟の建立を求めた。

康熙四十年(1701年)

  • 河神に「顕佑通済昭霊効順金龍四大王」の封号を加えた。
  • 張鵬翮に治河に関する上諭の編纂を命じた。

康熙四十一年(1702年)

  • 皇帝が南河を巡視し、帰京した。

康熙四十二年(1703年)

  • 皇帝が南河を巡視し、帰京した。

康熙四十四年(1705年)

  • 皇帝が両河の完成を受けて南巡した。
  • 古溝・唐埂・清水溝・韓家荘の堤防が決壊し、河督張鵬翮は革職とされたが留任を許された。

康熙四十六年(1707年)

  • 皇帝が南巡し河工を視察。溜淮套の開削策を巡って張鵬翮の宮保銜を革したが、留任は許された。
  • 皇帝は靳輔の治水の功を追念し、太子太保を追贈した。

康熙四十七年(1708年)

  • 秋の水害対策工程が平穏に終わったため、張鵬翮への処分を解いた。両河は安寧となり、堤防は無事となった。