清史紀事本末立太子の紛糾(立儲之反覆)

康熙十四年(1675年)の皇太子胤礽冊立から康熙六十一年(1722年)の皇帝崩御・雍正帝即位に至る48年間、皇太子廃立が繰り返された経緯を描く。索額図の誅殺、胤礽の二度の廃位と再立、諸皇子(胤禔・胤禩ら)の儲位争い、それに連座して粛清された臣下たちの顛末を通じて、最終的に雍正帝への継承に至るまでを記す。

年表(13件)

康熙十四年(1675年)

  • 冬、次子胤礽を皇太子に立てた。長子胤禔は庶出のため立てられず、胤礽は当時わずか二歳。この日殿に御して群臣の賀を受け、大赦を発した。

康熙二十九年(1690年)

  • 秋、皇帝がガルダン親征の途上で発病し帰京。途中で太子を呼び寄せて迎えさせたが、太子に憂色がなかったため皇帝は不快に思い、忠愛の心がないと責め、先に帰京させた。太子は性格が仁弱で礼節を欠くことが多く、以後父子の間に猜疑が生じ始めた。

康熙三十二年(1693年)

  • 春、皇帝が再びガルダンを親征し、太子に監国を命じた。

康熙四十一年(1702年)

  • 冬、皇帝が南河を巡視した際、太子も随行したが病のため徳州に留まり、大学士索額図が奉侍を命じられた。皇帝は太子への忠誠が篤い索額図を警戒し、太子に何かあれば連座させる意図で保護を命じたという。まもなく太子は快復し、索額図とともに帰京した。

康熙四十二年(1703年)

  • 夏、大学士索額図が誅殺された。監国中の太子をめぐり、諸皇子(特に長子胤禔・四子胤禛・八子胤禩)が儲位を争って党を組み暗躍し、世宗(雍正帝)の生母方の隆科多らも次第に雍邸に人望を集めていった。
  • 皇帝は太子の看病態度への不満から愛情が冷め、逆に世宗(雍正帝)が病中の皇帝に献身的に仕えたため寵愛を深めた。
  • 帰京後、太子冊立時の儀礼が帝に準じていたとの讒言があり、索額図の家人による告発を契機に取り調べが行われ、確証はないまま索額図は死罪となり、妻子は没官、連座者も処刑された。
  • 索額図の経歴(鰲拜排除への貢献、ネルチンスク条約交渉での功、三藩討伐時の軍務、呉三桂の刺客を説得した逸話など)も語られる。

康熙四十七年(1708年)

  • 秋、皇帝は布爾哈蘇台で太子胤礽の廃位を宣告した。索額図の仇討ちや弑逆の疑いを理由とし、索額図の子らを処刑、東宮の官属も処罰・流罪とした。
  • 廃太子の前年、朱三太子(明崇禎帝第四子と称する王士元こと張用観)の詐称事件が発覚し処刑されていたことにも触れ、皇帝の猜疑の深まりを示す。
  • 太子は幽閉後に発狂したとされ、皇帝は群臣に狂気を理由として廃位を告げ、涙ながらに天地・宗廟・社稷に廃黜を告げた。
  • 冬、胤禔が「相士張明徳の予言では胤禩が大貴になる」として胤禩擁立を進言し、太子暗殺まで示唆していたことが発覚。皇帝は胤禔を叱責し、張明徳は磔刑、胤禩は降爵となった。
  • 十一月、廃太子は釈放されたが、三子胤祉の告発により胤禔が喇嘛を使って廃太子を呪詛していたことが発覚し、胤禔は爵位を剥奪され幽禁された。皇帝は廃太子の暴行はあっても不孝の実はなく、胤禔の呪詛による狂疾だったとして再評価し、廃太子と対話して寛大な処置を示唆した。

康熙四十八年(1709年)

  • 春、胤礽を再び皇太子に立て、天地・祖先・社稷に告祭した。

康熙五十年(1711年)

  • 冬、太子に阿附し党を結んだ罪で歩軍統領托合斉らが磔刑、他の関係者も処刑・降格された。皇帝は「父子の間には他意はなく、みな部下が事を起こしただけ」と述べた。

康熙五十一年(1712年)

  • 冬、太子は再び廃され、咸安宮に禁錮された。群臣は当初の廃立にも黒幕がいたのではと疑い、後の雍正帝の言動(皇太子時代の胤礽との確執を語る発言など)から、当時すでに世宗への継承が内定していたとの憶測が広まった。以後、皇帝は立儲について言及することを禁じた。

康熙五十四年(1715年)

  • 冬、太医の賀孟頫が処刑され、都統公普奇が投獄された。廃太子の妃の治療で出入りした賀孟頫が廃太子の密書を普奇に届けていたことが発覚したため。

康熙五十七年(1718年)

  • 春、検討の朱天保が処刑された。廃太子の再立を求める上疏をしたことが皇帝の怒りを買い、その姉婿や父も連座して処罰された。

康熙六十年(1721年)

  • 春、大学士王掞、御史陶彞・柴謙ら十三人が西陲軍前に流された。建儲を繰り返し進言したことが不興を買ったためで、当時「十三忠臣一孝子」と称された。皇帝は自身の即位六十年の慶事に水を差されたと激しく王掞らを非難した。

康熙六十一年(1722年)

  • 冬、皇帝が発病し、世宗(雍正帝)が三度見舞いに入宮。隆科多のみが側に控える中、皇帝は崩御し、皇四子雍親王が遺詔により即位した。皇位継承の経緯が慌ただしく決まったため、当時から疑念が持たれた。