清史紀事本末欧人の通商・布教と和議の始まり(歐人通商、布教及和議之開始)
オランダ・ロシアとの通商交渉、宣教師湯若望・南懐仁の欽天監での活躍と暦法をめぐる対立、そしてロシアとの雅克薩攻略を経てネルチンスク条約による国境画定に至るまでの、康熙初期の対外関係を描く約25年間。
年表(8件)
- 康熙三年1664年オランダに銀幣を贈るが通商以外の要求は許さず
- 康熙四年1665年欽天監監正の湯若望が楊光先の弾劾により罷免される
- 康熙六年1667年ロシアの通使要請を辺境侵犯と逃亡者庇護を理由に拒絶する
- 康熙八年1669年南懐仁が欽天監監副となり楊光先の暦計算の誤りを論破する
- 康熙十四年1675年ロシア使節の要求が根忒木爾引き渡し条件で不成立に終わる
- 康熙二十五年1686年彭春らがロシア領雅克薩城を攻略し和議・国境画定を約束させる
- 康熙二十七年1688年索額図らの国境交渉がガルダンの争乱で中断・召還される
- 康熙二十八年1689年ネルチンスクでロシアと会談しゴルビッツァ川・アルグン川を国境とする条約が成立する
康熙三年(1664年)
- オランダ国王に銀幣を贈る。順治十三年(1656)にオランダが通商を求めて以来、清は八年に一度・船数四隻を上限とする通商を許可していた。鄭成功の台湾占領後、オランダは厦門・金門攻撃を援助した見返りとして通商継続を求め、使者を派遣、清は銀幣を与えたがそれ以外の要求は許さなかった。
康熙四年(1665年)
- 欽天監監正の湯若望(アダム・シャール、ドイツ人宣教師)が罷免される。世祖朝に暦学の功で重用されていたが、回教徒の楊光先が新法の誤りと国運の暦計算の不敬を弾劾、湯若望は磔刑に処されかけるが功績により死罪を免れ罷免にとどまる。
康熙六年(1667年)
- ロシアの通使要請を、辺境侵犯と逃亡者庇護を理由に拒絶。
康熙八年(1669年)
- 南懐仁(フェルビースト、ベルギー人宣教師)が欽天監監副となる。楊光先の暦計算の誤りを実証して論破し、光先は追放される。南懐仁はのちに大砲鋳造など軍事技術にも貢献し、三藩平定後に工部侍郎を追贈される。宣教師は暦学のみならず数学・測量・通訳など多方面で清朝に重用され、布教も黙認されて信者は数十万に及んだと伝える。
康熙十四年(1675年)
- ロシア使節が国境画定・通商・捕虜交換を求めるが、清は根忒木爾(清に帰順しロシアに逃げ戻った土酋)の引き渡しを条件とし、ロシアが応じなかったため成立せず。
康熙二十五年(1686年)
- 秋七月、彭春らがロシア領雅克薩(アルバジン)城を攻略、ロシア守将トルブジンが戦死。清軍にも疫病が広がり、オランダ公使の仲介でロシア皇帝に国境画定の交渉を提案、ロシア側も応じ和議・国境画定の使節派遣を約束、清は撤兵する。
康熙二十七年(1688年)
- 索額図・佟国綱・馬喇を公使としてロシアと国境交渉に派遣するが、ハルハとガルダンの争乱で道が塞がれ交渉は中断・召還される。
康熙二十八年(1689年)
- 索額図らがネルチンスクでロシア使節と会談。清は満・蒙・漢の大軍を後援に配し、当初は黒龍江以北のロシア領全域の清への帰属を主張、ロシア側は黒龍江を境界とすることを主張し対立。宣教師の張誠(ジェルビヨン)・徐日昇(ペレイラ)らの仲介で妥協が進み、最終的に北はゴルビッツァ川・スタノヴォイ山脈、西はアルグン川を国境とする条約が成立(ネルチンスク条約、別名黒龍江条約)。主な内容は次のとおり。
- ゴルビッツァ川からスタノヴォイ山脈に沿い、黒龍江に注ぐ嶺南の河川流域は清に、嶺北はロシアに帰属する。
- 西はアルグン川を境とし、南岸は清、北岸はロシアに帰属する。
- アルバジン城を破却し、住民・物資はロシア領へ移す。
- 両国の猟師は互いに国境を越えることを禁じ、違反者は処罰する。
- 両国は互いに逃亡者を匿わない。
- 通行許可証を持つ商旅の往来・貿易は妨げない。
- 逃亡者根忒木爾の引き渡し要求は、ロシア側がすでに洗礼を受け改名させたことを理由に拒否され、清側も追及を断念した。
- 冬十二月、両国は国境標識をゴルビッツァ川東岸とアルグン川南岸に建て、満・漢・蒙古・ラテン・ロシアの五言語で条文を刻む。これが中露修好・外交交渉の起点となった。