清史紀事本末ジュンガル・チベットの戦役(準噶爾及西藏之兵事)

ジューンガル部のガルダンによる侵犯を受け康熙帝が三度にわたり親征、烏蘭布通・昭莫多の戦いを経てガルダンを自殺に追い込み、続いてチベットのダライ・ラマ継承をめぐる争乱にツェワンラブタンが介入したため清軍を派遣してラサを平定、チベットを属領とするまでの約30年間を描く。

年表(9件)

康熙二十九年(1690年)

  • ジューンガル部のガルダンが辺境を侵犯したため、帝は親征を決意。ガルダンはオイラト・モンゴル(厄魯特、旧瓦剌)ジューンガル部の長で、兄僧格の暗殺後にチベットから帰還してこれを討ち、四部を統一、さらに天山南路や科布多・青海も併せ、モンゴル系ハルハ部の内紛に乗じてこれを圧倒し追い立てた。ハルハの数十万衆は清に投降。ガルダンはさらにハルハ追撃を名目に東進し烏珠穆沁部境まで侵入、清の阿喇尼軍は緒戦で敗退。
  • 七月、裕親王福全を撫遠大将軍とし皇長子胤禔を副将として出兵、清軍の初戦も苦戦し、ガルダンは烏蘭布通まで進出し北京に迫る。
  • 八月、烏蘭布通の戦いでガルダン軍に大打撃を与えるが、ダライ・ラマの使者の講和申し入れに乗じてガルダンは夜間に逃走、清軍の追撃も間に合わず終息。

康熙三十四年(1695年)

  • 再びジューンガル親征を議し、東・西・中の三路からの挟撃作戦を計画(薩布素・費揚古・帝自身の中路)。

康熙三十五年(1696年)

  • 帝が中路軍を率いて出征、大砲は携行せず機動力を重視。糧道の困難やロシアの介入説から班師を進言する声もあったが帝は退けて進軍、ガルダンは清軍の来襲に驚き遁走。
  • 西路軍(費揚古)が昭莫多でガルダン軍と激戦、伏兵と輜重急襲によりガルダン軍は壊滅、可敦(ガルダンの妃)も戦死、ガルダンは数十騎で逃亡。糧食窮乏の中でも帝は「雪を嚙んでも追撃する」と強い決意を示し、最終的に降伏勧告の期限を伝えて班師した。

康熙三十六年(1697年)

  • 再度親征、この間にガルダンの根拠地イリは甥のツェワンラブタンに奪われ、勢力は千人にも満たない窮状となる。
  • 閏三月、ガルダンが服毒自殺(イリ帰還も味方に捕らえられる危険、チベット逃亡も清軍に阻まれ、進退窮まった末の自害)。

康熙四十五年(1706年)

  • 冬十二月、チベットの拉藏汗が偽ダライ・ラマを北京に護送。チベットは唐代の吐蕃にあたり、元代には喇嘛(チベット仏教僧)の八思巴が国師・法王に封ぜられて以来、明代も厚遇された。永楽年間に宗喀巴(ツォンカパ)が黄教(ゲルク派)を興し、以後達頼・班禅の両系統が転生(呼畢爾罕)による師資相承を伝える。順治年間、五世ダライ・ラマが来朝し「西天自在大善仏」に封ぜられたが、その没後、摂政(第巴)の桑結(サンギェ・ギャツォ)が死を秘して独断で権を執り、ガルダンを操って清と対立させていた。桑結は五世の死を偽り、後継の呼畢爾罕をも秘匿していたが、拉藏汗が権力継承をめぐり桑結を討伐、偽ダライ・ラマを廃して新たに伊西堅錯(六世)を擁立、桑結の欺瞞を清に告発。清は拉藏を翼法恭順汗に冊封し、偽ダライを北京に召還させた。

康熙五十四年(1715年)

  • ジューンガルのツェワンラブタンがハミを侵掠、清は富寧安・費揚固らを派遣し防衛を固める。かつてツェワンラブタンはガルダン討伐に協力した功で天山西部の遊牧を許されていたが、拉藏汗が擁立した六世ダライ・ラマを青海諸部が偽物とみなし、裏塘出身の噶爾藏堅錯(後の七世)を擁立する対立が生じ、清は調停を試みるも和解せず、ツェワンラブタンはこの隙にチベット侵攻を狙う。

康熙五十六年(1717年)

  • 富寧安・傅爾丹をそれぞれ将軍に任じジューンガルの動静を偵察させる。
  • 秋七月、ツェワンラブタンの将ツェリン・ドンドブがチベットへ侵入、拉藏汗父子が迎撃するが劣勢で招城に籠城。
  • 十月、内応により招城(ラサ)が陥落、拉藏汗は殺され、新ダライ・ラマは幽閉される。

康熙五十七年(1718年)

  • 額倫特・色楞・査礼渾らを西寧から青海経由でチベット救援に派遣するが、道中で伏兵に遭い糧道を絶たれ全軍が覆没。
  • 冬十月、皇十四子胤禵を撫遠大将軍として西寧に駐屯させ、年羹堯を四川総督に改め成都で備兵、翌年の入蔵を期す。青海のチベット系諸部が西寧の新ダライ・ラマ(噶爾藏堅錯)を真の転生者と認め、清に護送を要請。

康熙五十九年(1720年)

  • 延信を青海経由、噶爾弼を四川経由(打箭炉)としてそれぞれチベットへ進軍。新ダライ・ラマを「宏法覚衆第六世達頼喇嘛」に冊封し、清・モンゴル諸部の護送軍を随行させる。
  • 秋八月、延信軍がツェリン・ドンドブ軍を三戦三勝で撃破。噶爾弼軍がラサに入城、反乱に加担した喇嘛を処罰。ツェリン・ドンドブ軍は退路を絶たれテンゲリ湖方面へ敗走、イリに帰還できた者は半数に満たなかった。
  • 九月、新ダライ・ラマがラサに入り、噶爾弼が旧ダライ・ラマ(拉藏擁立の六世)を北京へ連行、チベットが平定される。清は蒙古兵二千を留めて鎮守し、旧臣の康済鼐・頗羅鼐に前後蔵の政務を分掌させ、駐蔵大臣を置いて監督とした。以後、チベットは正式に清の属領となる。