清史紀事本末三藩の乱と孫延齢(三藩起事及孫延齡)
平西王呉三桂・平南王尚可喜・靖南王耿精忠の三藩体制が撤藩をめぐって崩れ、康熙十二年に呉三桂が雲南で挙兵、孫延齢・耿精忠・尚之信らも呼応して大乱となるが、清軍の反攻と呉三桂の病没を経て康熙二十一年に完全鎮圧されるまでの約20年間を描く。
年表(10件)
- 康熙元年1662年雲南平定の功で呉三桂が親王に進封され三藩体制が成立する
- 康熙六年1667年帝が親政を開始し藩鎮の強大化を警戒しはじめる
- 康熙十二年1673年呉三桂が雲南で挙兵し「周」の建元を宣言、三藩の乱が始まる
- 康熙十三年1674年孫延齢・耿精忠も相次いで反乱、陝西の王輔臣も叛く
- 康熙十五年1676年尚之信が呉三桂に降るが王輔臣は降伏、耿精忠も清に降伏する
- 康熙十六年1677年尚之信が清に降伏し平南王の爵位を襲封される
- 康熙十七年1678年呉三桂が衡州で皇帝を称し国号「大周」とするが病没する
- 康熙十九年1680年尚之信が謀反の疑いで賜死となる
- 康熙二十年1681年清軍が雲貴に進撃し呉世璠が自殺、雲貴が平定される
- 康熙二十一年1682年耿精忠らが処刑され三藩の乱が完全に鎮圧される
康熙元年(1662年)
- 雲南平定の功により呉三桂を親王に進封。清朝は孔有徳(広西)・尚可喜(広東)・耿仲明(広東→福建、継嗣耿継茂)・呉三桂(四川・雲南)を各地に鎮守させ、三藩体制が成立(孔有徳没後は爵絶)。呉三桂の長子応熊は北京で皇女を娶り駙馬として在京、朝廷の情報を三桂に伝える立場にあった。世祖崩御に際し三桂が兵を率いて弔問に上京、その威容に朝野が動揺する。
康熙六年(1667年)
- 帝が親政を開始し中央集権を志向、藩鎮の強大化を警戒しはじめる。呉三桂は目疾を理由に雲貴両省の事務辞退を上奏し朝廷の出方を試すが、朝廷はこれを機に藩の管轄事務を督撫に移管。地方官はなお三桂の意向を尊重する姿勢を示す。
康熙十二年(1673年)
- 尚可喜が老齢を理由に遼東への帰藩を願い出るが、子の之信を広西に残すことへの懸念から全藩の帰還が命じられる。耿精忠・呉三桂も同様に藩の処遇を伺う上奏を行うが、朝議は雲南藩のみ慎重論もあった中、米思翰・明珠・莫洛らが三藩同時撤廃を強く主張。
- 十一月、呉三桂が雲南で挙兵し反乱を起こす。撤藩を急がせる清の使者の態度に怒った三桂は、永暦帝陵に謁して漢官の装束で哭礼し、諸将の忠誠を固めた後、巡撫朱国治を殺害して挙兵、「天下都招討兵馬大元帥」を称し「周」の建元を宣言。貴州・雲南の官員も呼応。清は勒爾錦を寧南靖寇大将軍として荊州へ派遣、各地に守備軍を配置する。
康熙十三年(1674年)
- 呉三桂の将馬宝が湖南に侵攻、沅州・常徳・澧州・長沙・岳州が相次いで陥落。四川の官員も三桂に呼応。
- 二月、撫蛮将軍孫延齢が広西で反乱、三桂より臨江王に封ぜられる。
- 三月、耿精忠が福建で挙兵し「総統天下兵馬大将軍」を称し浙江・江西方面に出兵、鄭経とも呼応を図る。清は希爾根を派遣し討伐。
- 四月、呉三桂の子応熊・孫世霖が処刑される。三桂は岳州・澧州に防備を固め清軍と対峙、別動隊で江西・陝西方面にも侵攻。
- 九月、清は岳楽を定遠平寇大将軍として広東へ派遣。潮州総兵劉進忠が耿精忠に通じ、広西の馬雄・郭義も呉三桂に降り、広西全域が動揺。
- 十二月、陝西の王輔臣が経略莫洛を殺害し叛く。清軍の消極姿勢に帝は激怒し親征を議するが群臣の諫止で中止。
康熙十五年(1676年)
- 二月、尚之信が父可喜の抑制に反発し呉三桂に降り招討大将軍・輔徳親王に封ぜられる。可喜はほどなく憂悶のうちに死去。
- 六月、清の図海らが平涼で王輔臣を撃破、輔臣は降伏。
- 九月、康親王傑書が福建に進撃し馬九玉軍を破る。白顕忠も追い詰められ降伏。
- 十月、傑書軍が延平に迫り、内外に窮した耿精忠が降伏、爵位は安堵される。
- 十二月、呉三桂の一族が孫延齢を桂林で謀殺(延齢が反正を志したことを妻の勧めで馬雄が察知し密告したため)。
康熙十六年(1677年)
- 五月、清将莽依図が韶州に入り、尚之信が降伏、平南王の爵位を襲封される。
康熙十七年(1678年)
- 三月、呉三桂が衡州で皇帝を称し国号を「大周」、年号を昭武(のち利用)とするが、これは陝西・福建・広東・江西の援軍を失い勢力が衰えた末の権威付けであった。
- 六月、呉三桂軍が永興を包囲するが清軍は救援に消極的なまま対峙。
- 八月、呉三桂が病没、孫の世璠が継ぎ改元洪化。永興包囲も三桂の死により解かれる。
康熙十九年(1680年)
- 八月、尚之信が謀反の疑いを弟之孝や旗下の密告により追及され、賜死。関係者多数が処刑される。
康熙二十年(1681年)
- 十月、清の彰泰らが雲貴に進撃、世璠は自殺し雲貴が平定される(陝西・四川・広西方面の清軍がそれぞれ勝利を重ね、最終的に昆明を包囲・攻略)。
康熙二十一年(1682年)
- 正月、耿精忠と子の顕祚、曾養性・劉進忠らが処刑され、三藩の乱は完全に鎮圧される。清は藩の軍を撤収し要地に八旗の駐防を配置、以後諸侯に土地・兵権を世襲させる封建的措置を廃し、中央集権体制を確立する。
史論(編者曰)
- 編者は、三藩の乱当初は清廷が漢人武将を強く猜疑し、王・貝勒による指揮も実戦経験に乏しかったため、呉三桂の快進撃に諸将が動揺し内応を企てる者すらいたと指摘する。蔡毓榮の踏みとどまりで岳州は八年守られたが、清軍は三桂の死を待って進軍したに過ぎず、乱平定後の論功行賞では、実際に激戦を戦った西・東路の将(趙良棟・蔡毓榮ら)がかえって処罰される不公平があったと批判する。