清史紀事本末南明三帝と監国魯王(明南渡三帝及び監国魯王)

北京陥落後、南明の弘光・隆武・永暦の三帝と監国魯王が江南・福建・広東・雲南で相次いで抗清を試みるも内訌と敗戦を重ね、順治十八年(1661年)の永暦帝の緬甸引き渡し、康熙元年(1662年)の処刑によって南明が終焉するまでの経過。

年表(16件)

順治元年(1644年)

  • 北京陥落の報を受け、南京では福王由崧(神宗の孫)を擁立する議が起こり、史可法・馬士英らの主導で監国、まもなく即位(弘光帝、翌年弘光元年)。
  • 馬士英が実権を握り、史可法は江北の防衛(督師)に出され、四鎮(高傑・劉良佐・劉沢清・黄得功)の分治体制が敷かれた。
  • 崇禎帝夫妻に諡号(烈皇帝・孝節皇后)を追贈。左懋第・馬紹愉らを北へ派遣し清との和平交渉を試みるが決裂、左懋第は北京で節を守り死んだ。同行の陳洪範は密かに清に内通した。
  • 摂政王多爾袞、史可法に降伏を促す書簡を送るも、可法は漢・晋・唐・宋の中興の故事を引いて拒絶した。
  • 阮大鋮の起用など南明政権内部の腐敗も進行。豫親王多鐸、河南へ進軍を開始した。

順治二年(1645年)

  • 許定国が高傑を謀殺し清に投降。北からの「太子」を称する人物が現れ真偽論争が起き、南京朝廷が動揺。左良玉が「君側の奸を除く」名目で東下し内紛が深刻化した。
  • 多鐸軍、揚州を包囲。史可法は総兵劉肇基らわずかな兵で七昼夜守り抜くも、ついに陥落し可法は殺される(揚州十日の惨劇)。
  • 多鐸、南京へ進撃。弘光帝は蕪湖へ逃れるも、総兵田雄に捕らえられる。黄得功は力戦の末流れ矢に当たり戦死した。
  • 潞王が杭州で降伏。閏月、唐王聿鍵が福州で監国、まもなく即位(隆武帝)。同じ頃、魯王以海が紹興で監国。南明は隆武・魯監国の並立状態となった。
  • 大学士黄道周、江西で募兵し北伐を図るも、実権を握る鄭芝龍の妨害で兵糧を得られず苦戦。督師張国維は魯監国方で富陽・於潜を回復するなど戦果を挙げた。
  • 十二月、黄道周は婺源で敗れ捕らえられ、屈せず処刑された。

順治三年(1646年)

  • 魯王配下の王之仁らが銭塘で清軍に大勝するも、杭州攻略には至らなかった。
  • 鄭芝龍の裏切りにより仙霞嶺の防備が崩れ、清軍が福建に侵入。隆武帝は汀州で捕らえられ殺害された。同じ頃、江西贛州も陥落し楊廷麟らが死んだ。
  • 桂王由榔(神宗の孫)が丁魁楚らに擁立され肇慶で監国、まもなく即位(永暦帝)。同時に唐王聿𨮁が広州で即位(紹武帝)を称し、南明内で二政権が並立し互いに争う異常事態となった。
  • 清将李成棟、広州を陥落させ紹武帝・蘇観生は死んだ。桂王も梧州・平楽・桂林と逃亡を続けた。

順治四年(1647年)

  • 桂王、広西各地を転々とするが、瞿式耜・焦璉らの奮戦(桂林の防衛)により辛くも危機を脱する。
  • 孫可望(張献忠の養子)が明に帰順。
  • 孔有德・耿仲明・尚可喜(いずれも旧毛文龍配下)ら降将が桂林を攻めるも、焦璉らに撃退される。陳子壮・張家玉・陳邦彦らも広東各地で挙兵した。

順治五年(1648年)

  • 金声桓(江西)・李成棟(広東)が清から明に寝返り(反正)、明の勢力は一時両広・雲貴・江西・湖南・四川の七省に及んだ。

順治六年(1649年)

  • 総督何騰蛟、湘潭で降将徐勇に捕らえられ殺害される。
  • 魯王、舟山に拠点を移す。鄭氏(黄斌卿)水軍を平定した張名振らとの連携も模索されるが安定しなかった。

順治七年(1650年)

  • 孔有德軍が桂林を陥落させ、瞿式耜・張同敞は降伏を拒み屈せず処刑された。

順治八年(1651年)

  • 清軍、舟山を陥落させ張肯堂ら死す。魯王は海上へ逃れた。
  • 陳邦傅が清に寝返り、姻戚関係にあった焦璉に降伏を勧めるも拒まれ自刎させた上、潯州を献じて降った。

順治九年(1652年)

  • 桂王、孫可望に擁されて安隆(安龍府)に居所を移す。
  • 李定国、桂林を奪還し孔有德を敗死させる(一族自焚)。湖南・広西・四川の一部を回復した。
  • 清の敬謹親王尼堪、追撃中に李定国の伏兵にかかり戦死した。

順治十一年(1654年)

  • 李定国、広東方面(羅定・新興など)を回復。

順治十三年(1656年)

  • 李定国・白文選、桂王を擁して雲南(滇都)に入る。孫可望との対立が背景にあり、密勅による自衛計画が発覚し関係者(吳貞毓ら十六人)が処刑される事件もあった。
  • 清軍、舟山を再攻略、明の阮駿ら死す。

順治十四年(1657年)

  • 聖安帝(弘光、安宗簡皇帝)・思文帝(隆武、紹宗襄皇帝)に諡号を追贈。孫可望、清に投降した。

順治十五年(1658年)

  • 清軍、貝子洛託を大将軍として雲南方面へ三路進攻を開始。呉三桂は遵義に入る。

順治十六年(1659年)

  • 清軍、雲南を制圧。桂王は緬甸へ逃れた。呉三桂は磨盤山で李定国の伏兵に大敗を喫するも、緬甸方面への追撃は続いた。
  • 明の遺臣張煌言、長江下流域で一時二十九城を回復する快挙を成した。

順治十八年(1661年)

  • 李定国・白文選、緬甸で明帝の奪還を試み、緬軍を撃破するも帝の身柄を得られなかった。
  • 呉三桂、緬甸へ進撃。緬王莽猛白の弟の政変により、明帝は清側に引き渡された。

清聖祖康熙元年(1662年)

  • 呉三桂、雲南で明の桂王(永暦帝)と太子を絞殺(太子は「わが父子に何の仇があるのか」と罵り抗ったと伝わる)。同年、鄭成功・李定国・魯王監国もそれぞれ没し、南明の抵抗運動は終焉した。
  • 明は太祖から数えて18帝294年で滅亡した。