清史紀事本末多爾袞の摂政と諸王の内紛(多爾袞摂政及び諸王内訌)
崇禎十六年(1643年)に世祖が幼くして即位し多爾袞・済爾哈朗が輔政となってから、多爾袞が権力を独占し豪格を陥れ皇父摂政王を称するに至り、順治七年(1650年)に死去、翌年その罪状が暴かれ大逆転の処分を受けるまでの経過。
年表(10件)
- 明思宗
- 崇禎十六年(1643年)世祖が帝位を継ぎ、済爾哈朗・多爾袞が輔政
- 順治元年(1644年)多爾袞に権力集中、北京入城し皇叔父摂政王に加封
- 順治二年(1645年)阿済格が降格され、多爾袞が諸王に忠誠を諭す
- 順治三年(1646年)諸王の上奏を直接御前へ差し出す体制に改める
- 順治四年(1647年)済爾哈朗を政務から外し多鐸を輔政叔王に昇格
- 順治五年(1648年)済爾哈朗降格、豪格幽閉され獄死、多爾袞は皇父摂政王に
- 順治六年(1649年)多爾袞、大同へ親征、正妃が死去
- 順治七年(1650年)多爾袞、十二月に喀喇城で死去(39歳)
- 順治八年(1651年)多爾袞の罪状が発覚し廟享撤去・財産没収の処分
- 順治十年(1653年)廃后博爾済錦氏を静妃に降格
明思宗崇禎十六年(1643年)
- 世祖(6歳)が帝位を継ぎ、翌年を順治元年とする。鄭親王済爾哈朗と睿親王多爾袞が輔政に立てられた。
- 豫郡王多鐸が大学士范文程の妻を奪おうとした事件が発覚し処罰される。粛親王豪格も事実を知りながら告発しなかった罪で罰金。
- 諸王貝勒の部院管理を廃止し、都察院の監督下に置く(多爾袞による権力集中の始まり)。
順治元年(1644年)
- 済爾哈朗、政務は先に睿親王多爾袞に伺いを立てるよう定め、実質的に多爾袞に権力が集中した。
- 多鐸、戸部への無断立入りと女子調査で罰金。粛親王豪格、多爾袞への不満を漏らしたことを密告され庶人に落とされる(関係者は死罪・恩賞に分かれた)。
- 多爾袞、北京入城。「周公が幼主を輔けたように」と謙譲を口にしつつも輦に乗り武英殿で朝賀を受けた。九月、世祖入京。
- 十月、多爾袞を皇叔父摂政王に加封し碑を建てて功績を称える。済爾哈朗は信義輔政叔王に、豪格は粛親王位を回復。
順治二年(1645年)
- 阿済格(多爾袞同母兄)、李自成の死を誤報したこと、命令を待たず班師したこと等の罪で郡王に降格。多鐸は和碩徳豫親王に加封される。
- 十二月、多爾袞、諸王大臣に対し「皇上への忠誠を尽くせ、私に媚びる者は許さぬ」と諭す(自身への権力集中を批判されぬよう牽制する動きとみられる)。この時、多鐸だけは黙して答えなかった。
順治三年(1646年)
- 諸王大臣が外地から行う上奏は、多爾袞を経由せず直接御前へ差し出すよう定め、実質的に権限を自身に集約する体制を改めた。
順治四年(1647年)
- 済爾哈朗、殿の基壇が制度を超えるなどの理由で罰金。多爾袞、多鐸を輔政叔徳豫親王に昇格させ、済爾哈朗を政務から外す。
順治五年(1648年)
- 済爾哈朗、かつて太宗崩御の際に豪格擁立を図ったとの密告により多羅郡王に降格。豪格は罪に問われ幽閉、まもなく獄死した(世は多爾袞による排除と受け止め哀惜した)。
- 十一月、大赦。多爾袞、皇叔父摂政王から皇父摂政王に加封され、上奏文にもその称号が用いられるようになった。
順治六年(1649年)
- 多爾袞、大同へ親征、次いで再遠征。途上で多鐸の発痘の報を受け急遽帰還した。
- 喀爾喀部への遠征も、正妃の病のため中止。年末に正妃博爾済錦氏が死去。
順治七年(1650年)
- 多爾袞、正妃を追封する一方、豪格の妃であった博爾済錦氏を新たに妃として迎える。辺外に避暑用の城を築かせる。
- 帝の見舞いを勝手に願い出た貝子錫翰らを、多爾袞自ら跪いて詫びさせた上で降格処分とした逸話が伝わる。
- 十二月、多爾袞、喀喇城で死去(39歳)。皇帝の礼をもって葬儀が行われ、信符(王府の印章類)は内庫に収められた。
順治八年(1651年)
- 正月、多爾袞を太廟に配祀し「義皇帝」と追尊するも、まもなく罪状(僭越な帝服の私製、御用の珠宝の隠匿など)が発覚し、廟享撤去・母妻の封典剥奪・財産没収・嗣子多爾博の襲爵停止という大逆転処分となった。同母兄阿済格も自尽を命じられ、関係者数名が処刑された。多鐸も郡王に降格。
順治十年(1653年)
- 廃后博爾済錦氏(多爾袞が世祖の幼少時に強引に定めた后)を静妃に降格し、別宮に移した。
史論(編者曰)
- 多爾袞は当初、鄭親王済爾哈朗と共に輔政したが、権力独占を図り次第に済爾哈朗を退け、同母弟多鐸を重用した。
- かねて忌んでいた粛親王豪格を讒言により陥れ、非業の死に追いやり、その妃まで奪った。
- 中原平定・遷都という大功により権勢はいよいよ増し、「皇父摂政王」を称し、玉璽・信符まで自邸に収めるなど、君臣の分をわきまえぬ振る舞いが目立った。
- 死後まもなく、近侍の蘇克薩哈らの告発により、生前の僭越行為(帝服の私製等)が暴かれ、諸王が結束して弾劾し大獄となった。
- 編者は、多爾袞が済爾哈朗のように謙譲の心を持ち権勢に淫しなければ、生前の功業を保ち子孫も末永く栄えたはずだと惜しむ。