清史紀事本末流賊の平定(削平流冦)

順治元年(1644年)、李自成が北京放棄後に西走し、清・呉三桂連合軍の追撃を受けて敗走を重ね、順治二年に九宮山で討たれるまでの経過。あわせて張献忠の大西国滅亡、順治四年の孫可望敗走による流賊平定までを描く。

年表(3件)

順治元年(1644年)

  • 李自成、北京を放棄し西へ敗走。武英殿で急遽帝号を称すも、呉三桂の追撃を受け山西へ逃走。
  • 呉三桂は李自成の和議交渉(太子・二王の返還)を巧みに退け、伏兵で太子奪還を図り自成軍を撃破。自成は怒って呉三桂の父襄・一族を殺害し、大順永昌元年を僭称するも、宮殿を焼いて西安へ敗走した。
  • 呉三桂・多爾袞は李自成を追撃し、真定・清水河などで連戦連勝。自成の将谷可成は戦死し、自成自身も流れ矢を受けつつ山西を経て西安へ逃げ帰った。
  • 自成配下の李巌は殺戮を控え人心収攬に努めていたが、河南出身で威望が高いことを牛金星に警戒され讒言により誅殺された。以後軍中の結束は乱れ、自成は再起できぬまま西安に戻った。
  • 清は英親王阿済格・豫親王多鐸を両路に分けて陝西への大挙進攻を命令。山西・山東方面も次々平定された。
  • 多鐸軍、洛陽・陝州・潼関外の地を攻略。

順治二年(1645年)

  • 李自成は潼関の防衛に失敗し西安を放棄、襄陽方面へ敗走(西安陥落)。
  • 阿済格軍が延安・鄜州を制圧、自成は挟撃を受け敗走を重ねる。田見秀は西安の倉廩を焼かず民のために残した。
  • 五月、李自成は武昌に至った後、湖南方面へ移動する途上、九宮山(湖北通山)付近で郷兵に討たれて死去。残余の大軍(約五十万)は明の湖広総督何騰蛟に降伏し「忠貞営」と称された。
  • 張献忠は成都で大西国を称していたが、清の粛親王豪格軍に追われ、投降した部下劉進忠の手引きで奇襲を受け、鳳凰坡で射られ捕らえられ磔にされた。残党は孫可望らに率いられ遵義方面へ敗走。

順治四年(1647年)

  • 孫可望、明の遵義を陥れるも、豪格軍に重慶を落とされ貴州へ敗走。これにより流賊の乱はほぼ平定された。