清史紀事本末順治帝、山海関を入る(順治入関)
世祖順治元年(1644年)、多爾袞が呉三桂と結んで李自成を破り入京・遷都してから、辮髪令・満漢通婚・科挙整備など清朝支配体制を整え、順治十八年(1661年)の世祖崩御に至るまでの経過。18年間。
年表(18件)
- 世祖
- 順治元年(1644年)多爾袞が呉三桂と結び李自成を破り入京、世祖入京
- 順治二年(1645年)辮髪令を厳格化し江南等の招撫を進める
- 順治三年(1646年)陵廟祭祀の制を定め会試合格者を拡大
- 順治四年(1647年)漕運総督を治罪、大清律を頒行
- 順治五年(1648年)満漢通婚を許可し服制を満洲式に統一
- 順治六年(1649年)財政難により捐納制度を導入
- 順治七年(1650年)日食の記録のみで大きな出来事は伝わらない
- 順治八年(1651年)世祖親政開始、大赦
- 順治九年(1652年)会試不正事件が発覚、諸王の部務管理を廃止
- 順治十年(1653年)満漢官吏の職掌を巡る建議に帝が激怒し処罰
- 順治十一年(1654年)陳名夏を絞殺、各地で災害頻発
- 順治十二年(1655年)揚州の女子徴発に反対した官を処罰
- 順治十三年(1656年)天変を理由に自責の祭祀、オランダが朝貢
- 順治十四年(1657年)科挙不正(順天郷試事件)で関係者処刑
- 順治十五年(1658年)内監呉良輔を処刑、義王孫可望の処遇を巡り騒動
- 順治十六年(1659年)雲南平定を機に会試を秋に実施
- 順治十七年(1660年)貴妃董鄂氏が薨去
- 順治十八年(1661年)世祖崩御(24歳)、董鄂妃殉死の伝えあり
世祖順治元年(1644年)
- 摂政王多爾袞、奉天大将軍として山海関外の明領接収と中原経略を命じられる。
- 呉三桂は李自成の招降にいったん応じかけたが、愛妾陳沅を奪われた怒りから翻意し、清に援軍を要請。李自成軍は山海関付近で清・呉連合軍に大敗(一片石の戦い)、北京へ敗走した。
- 多爾袞、呉三桂を平西王に封じ、辮髪令を発令。五月、多爾袞入京。李自成は北京を放棄して西走した。
- 明の文武諸臣は多爾袞に勧進の表を捧げたが、大学士范文程は「わが国の皇帝は昨年すでに即位している」と応じ、多爾袞は崇禎帝のために喪を発し諡を懐宗端皇帝と定めた。
- 六月、遷都を議決。十月、世祖入京、南郊で天地社稷を祭り、加派税餉など明末の弊政を除く詔を発した。堂子(満洲の祭天施設)を御河橋東に建立。
- 十二月、偽の「太子」を称する少年が現れ、周奎邸に出入りしたことから真偽論争となり、朝野を巻き込む騒動となったが、多爾袞は「真偽を問わず騒ぎを起こす者は乱民」として太子と関係者十五人を処刑した。
順治二年(1645年)
- 朝鮮の朝貢を恒例化。満洲の圏地内の墳墓祭祀や旗人への住宅譲渡について緩和措置。
- 各府州県学の優秀な生員を国子監に送る制度、武科挙の実施、明史編纂(馮銓・洪承疇・范文程らを編修官に)を開始。
- 辮髪令を厳格化し違反者は死罪とする。洪承疇に江南各省の招撫を、吳惟華・孫之獬らに広東・広西・江西・福建・湖南・雲貴の招撫を命じる。
- 明の旧皇族・勲貴の土地を没収し旗人に給付する措置。
順治三年(1646年)
- 陵廟祭祀の制を定める。この年の会試合格者を400名に拡大(この回のみの特例)。
- 『洪武宝訓』の満洲語訳を頒布。未帰順地の生員・挙人にも受験資格を許可。
- 満洲人選抜隠匿の禁を厳格化。明の魯王ら十一人を処刑。白蓮教などの禁教を強化。
- 京師で地震。刑部の濫訴を禁じ、訴訟の手続を整備。
順治四年(1647年)
- 漕運総督王文奎を罷免・治罪(荒田租賦を勝手に免除し、明の陵寝祭祀を求めた罪)。
- 三品以上の官・総督巡撫らに子弟一名を出仕させる制度、『大清律』の頒行。
- 江寧・西安駐防旗人への土地給付。広東雷州・廉州で真珠採取。マカオの外国人の広東入省を禁止。
順治五年(1648年)
- 満漢通婚を許可し、官民の服制を満洲式に統一。天啓帝の后を称する女性による反乱未遂を鎮圧。
順治六年(1649年)
- 財政難により監生・吏典等の捐納制度、僧道度牒の発給、贖罪金制度を導入。
- 江南・河南で大雹害。
順治七年(1650年)
- 日食の記録のみで大きな出来事は伝わらない。
順治八年(1651年)
- 世祖親政開始、大赦。蘇克薩哈・鰲拜らを議政大臣に任命。
- 囲猟用に圏地された民田を返還。諸王貝勒による各部院管理制を導入。
順治九年(1652年)
- 会試不正事件(首席合格者程可則の資格取消、考官処罰)。諸王貝勒の部務管理を廃止。
- 江南で旱魃、直隷・山東等で大水害。給事中楊雍建が帝の遊猟を諫めて厳しく叱責されるも屈しなかった。
- 大学士洪承疇・陳之遴が天変を理由に達頼喇嘛の出迎え中止を進言、採用された。
- 屯田政策の四方策を上奏。京師の大盗李応試らを処刑。
順治十年(1653年)
- 満漢官吏の職掌を巡る李呈祥の建議に帝が激怒し処罰。旱魃で直言を求める。
- 一条鞭法の改折規定を制定。直隷で大水害。災害報告の期限制度を定める。明の諸王を多数処刑。
順治十一年(1654年)
- 趙開心の諫言(畋猟を控えるべき等)に帝激怒。大学士陳名夏を絞殺(辮髪廃止・漢制復活を口にしたことが咎められた)。各地で地震・水害・大火が頻発。
順治十二年(1655年)
- 揚州の女子徴発に反対した季開生・趙開心を処罰。景山・瀛台の名を賜う。
順治十三年(1656年)
- 天変・災異を理由に南郊・太廟で自責の祭祀。オランダの朝貢。閣臣の議政を停止。
順治十四年(1657年)
- 各地で地震頻発。遺書の捜索を命令。科挙不正(順天郷試事件)により関係者を処刑。
順治十五年(1658年)
- 内監呉良輔を内外官との不正な結託の罪で処刑。総督張懸錫、義王孫可望を迎える儀礼で辱めを受け自刃未遂、のち自害した。
順治十六年(1659年)
- 雲南平定を機に会試を秋に実施。誣告の禁を厳格化。
順治十七年(1660年)
- 旱魃で直言を求める。刑獄の清理、封駁の制度化。貴妃董鄂氏(明の遺臣冒辟疆の姫であったと伝えられる)が薨去。
順治十八年(1661年)
- 正月、彗星出現とともに世祖崩御(24歳)。廟号世祖、孝陵に葬られる。妃董鄂氏は殉死したとされ貞妃を追封。
史論(編者曰)
- 董鄂妃の死後、世祖は深く悲しみ、政務を離れて悲嘆に沈んだと伝えられる。
- 世人の間には、世祖は実は崩御しておらず五台山で出家したとする異説が根強く流布した。太皇太后・皇太后がしばしば五台山に赴いたことや、順治十三年暦をめぐる逸話などが根拠として語られる。
- 編者は、これらの説は情況証拠として筋が通ってはいるものの、多分に付会(こじつけ)によるものと考えられるとして、本文には採用しなかった。