清史紀事本末鄭成功の事蹟(明朱成功之事蹟)

鄭成功(国姓爺)が明の隆武帝より賜姓を受けてから、父芝龍の清への降伏に抗して挙兵し、福建沿海を拠点に清軍と戦い続け、南京攻略の失敗を経て台湾からオランダ勢力を駆逐して東都を建てるまでの生涯、および子の鄭経・孫の克塽に至る鄭氏政権が清の施琅により降伏するまでを描く。順治二年(1645)から康熙二十二年(1683)まで、約40年間。

年表(25件)

順治二年(1645年)

  • 鄭芝龍の子・森が明の隆武帝より国姓「朱」姓と成功の名を賜り、以後「国姓爺」と称される。日本生まれ(母は田川氏)で幼少より聡明、諸生の試験でも高い評価を得た。

順治三年(1646年)

  • 隆武帝は成功を忠孝伯・招討大将軍に任じ、成功は父芝龍の裏切りを憂慮し忠誠を誓う。
  • 芝龍は清軍に降り、隆武帝は汀州で殺害される。成功は父の投降に反対し金門に去り、自らの兵を率いて海上に拠り、儒服を焼いて明への忠誠を誓い挙兵する。

順治四年(1647年)

  • 成功、海澄を回復。清軍が安平を攻めた際、母の田川氏が自刃。成功は喪服のまま出師し清軍を退け海澄・九都を得る。
  • 泉州攻撃は失敗、味方の内応も露見し多数が殺される。
  • 隆武帝没後、永暦帝の即位を知らぬまま「隆武四年」の暦を頒布。

順治五年(1648年)

  • 同安を回復するが、清軍に奪還され屠城される。
  • 永暦帝の即位を知り歓喜し、使者を派遣。詔安・雲霄を回復し威遠侯に封ぜられる。

順治六年(1649年)

  • 分水関に屯兵し惠来を破る。広平公に進封される。

順治七年(1650年)

  • 潮陽・掲陽を攻略。碣石衛での降将討伐は失敗し部将柯宸樞が全滅、成功は深く痛惜する。
  • 廈門・金門の二島を鄭彩・鄭聯より奪い併合、軍威が高まる。
  • 恵来で降将蘇利に敗れ部将盧爵らが戦死。銅山・南澳・閩安を平定。広東救援に南下。

順治八年(1651年)

  • 降将馬得功が廈門を襲い曾櫻が死す。成功が奪還。
  • 部将施琅が処罰を恐れ清に降り施琅と改名。
  • 漳浦を回復。

順治九年(1652年)

  • 海澄を回復、長泰を攻め清の総督陳錦を自軍下の内応者が刺殺、成功は功労者を厚遇しつつも規律のため処刑する。

順治十年(1653年)

  • 部将張名振に長江侵入を命じ京口を破り崇明に進駐。
  • 清軍の海澄攻撃を撃退。漳国公に進封。

順治十一年(1654年)

  • 張名振が再度長江に入り金山で明孝陵を望拝。
  • 清との和議交渉を拒否、父芝龍を人質にした説得にも応じず。
  • 広東での李定国救援は失敗。漳州を回復。

順治十二年(1655年)

  • 仙遊を回復し思明州と改称、官制を整備し明の宗室・遺臣を厚遇。
  • 舟山を回復、掲陽・普寧を得るが清軍の来襲に備え諸城を破棄し廈門に戻る。

順治十三年(1656年)

  • 清の世子済度による廈門・金門攻撃を撃退。
  • 部将黄梧が海澄を清に献じ降伏、清の海防策を献策。
  • 福州を攻めるも伏兵に阻まれ撤退。羅源・寧徳を攻め清の阿克襄を討ち取るが、和議には応じず。

順治十四年(1657年)

  • 台州方面を攻略するが閩安は清に奪われる。
  • 明より延平王・招討大将軍に冊封され尚方剣を賜る。江南攻略を志す。

順治十五年(1658年)

  • 張煌言と共に長江を目指すが颱風で舟山に退く(子3人溺死)。象山を回復。

順治十六年(1659年)

  • 再度北伐、瓜州・鎮江を破り南京を包囲するも油断により清軍の奇襲を受け大敗、多くの部将が戦死。廈門に帰還し戦死者を弔う。

順治十七年(1660年)

  • 清の達素の廈門攻撃を撃退。
  • 台湾攻略を決意、オランダ人の内通者の情報を得て艦隊を台湾へ向ける。

順治十八年(1661年)

  • 台湾に上陸し赤嵌を攻略。オランダの援軍到来も戦況は膠着。
  • 鄭芝龍が処刑される。清は遷界令を布き沿海住民を強制移住。
  • 台湾を占領し東都と改称、内政・軍備を整え諸外国とも通交。

康熙元年(1662年)

  • 成功、病没(享年39)。子の鄭経が後を継ぐ。同年、永暦帝も殺害され、監国魯王も没す。

康熙八年(1669年)

  • 清が使者を送り台湾に招撫を試みるが、鄭経は朝鮮同様の待遇(薙髪不要)を求め決裂。以後使節は往来するが交渉は平行線のまま、台湾は通商・開墾により発展する。

康熙十三年(1674年)

  • 鄭経、耿精忠の要請に応じ出兵し泉・漳・潮三郡を取るが、のち耿精忠との盟約破棄により単独で領有。

康熙十四年(1675年)

  • 部将劉国軒が漳州を攻略、清の黄芳度を討つ。

康熙十七年(1678年)

  • 劉国軒が海澄を攻略し漳州・泉州を包囲するが、のち清軍の反撃で膠着。

康熙十九年(1680年)

  • 清軍の反攻により海澄・廈門を失い、鄭経は台湾に退く。清の講和提案(不薙髪・不入貢も可)にも交渉不成立。

康熙二十年(1681年)

  • 鄭経死去、子の克塽が後を継ぐ。

康熙二十二年(1683年)

  • 清の施琅が台湾に侵攻、鄭克塽が降伏し明の正朔は絶える。

史論(編者曰)

  • 編者は、成功が一介の匹夫の身でありながら西欧列強に匹敵する独立勢力を築き、中華民国の先駆けとなったと評価する。明朝滅亡後もその衣冠正朔を海外に保った功績を称え、成功を人傑と讃える。