清史紀事本末北京、李自成に陥落する(燕京陥賊)
崇禎十七年(1644年)、李自成が西安で「順」を建国してから北京を陥落させ崇禎帝が自尽するまでの経過を、明朝廷の対応の混乱とともに描く1年間の記録。
年表(1件)
- 崇禎十七年(1644年)李自成が西安で順を建国、北京を陥落させ崇禎帝は景山で自尽
崇禎十七年(1644年)
年初の凶兆と李自成の台頭
- 正月朔、朝賀の儀で朝臣がほとんど参内せず作法も乱れるなど、不吉な兆しが相次いだ(大風、乾清宮裏の狐の足跡、鳳陽の地震など)。
- 李自成(陝西米脂の人、もと楊肇基営の隊長)は反乱軍を糾合し、正月に西安で王を称し、国号「順」、元号「永昌」と定めた。丞相格の牛金星らが偽官制・科挙・暦を整備し、悖逆の檄文を各地に流布させた。
明朝廷の対応の混乱
- 李明睿らが帝の南遷・南京駐蹕を進言するも、帝は「久しく望むところだが群臣が従わない」と嘆くのみで実行されず。
- 曾応遴が紳士・富商への献納を求めるが実効を挙げず。鳳陽巡撫路振飛が黄河防備を固める。
- 大学士李建泰、私財を投じて出師を申し出て派遣されるが、途上で自邸の危機を知り怖じ気づき進軍しなかった。
- 張献忠は四川に侵攻し夔州を攻略、蜀の防備の隙を突いて蜀地方を制圧しつつあった。
山西・華北の陥落
- 二月、賊軍からの脅迫状に朝廷は震撼。李自成軍は汾州・陽城・懐慶・太原を次々に攻略。
- 薊遼総督王永吉らが呉三桂の入衛を進言するが議論がまとまらず実行されず、帝は罪己の詔を下した。
- 李自成軍は忻州から寧武関に迫り、総兵周遇吉が激しく抵抗し多大な損害を与えたが、衆寡敵せず陥落、遇吉夫妻・部下の胡人女性隊も含め壮絶に戦死した。自成は「これほど死傷者が出るなら西安に戻るべきか」と一時弱気になったが、大同・宣府の守将の降伏の報が届き東進を続けた。
- 保定副将謝嘉福が巡撫徐標を殺害し賊に降るなど、各地で内応・裏切りが相次いだ。李邦華らが太子の南京居住・分遣防衛を進言するも実行されず。
北京の陥落と崇禎帝の自尽
- 三月、昌平で兵変。京師は戒厳となり、諸生張鑻が太子の南京監国を進言。
- 李自成軍、寧武関を落とした後、大同・居庸関の守将(唐通ら)の裏切りで長駆北京に迫った。
- 昌平が陥落し十二陵が焼かれる。京営兵は新橋で潰走し、賊は北京を包囲した。
- 帝は「文武の人はみな殺されて構わぬが、百姓は殺すな」と御案に書き記したと伝わる。
- 内城・外城が相次いで陥落(宦官曹化淳の内応による)。帝は登楼して「わが民を苦しめただけであった」と嘆き、太子・諸王を臣下に託した後、皇后は自ら首をくくり、帝は自ら妃嬪や公主を手にかけ、景山(万寿山)で宦官王承恩と共に縊死した。
- 遺詔には「群臣が国を誤り、祖宗に見える顔がない、冠冕を外し賊に体を任せてよいが、百姓を傷つけぬように」との言葉が残された。