清史紀事本末明末の戦争(明季戦争)

皇太極が朝鮮出兵(丁卯胡乱)と対明攻勢を重ね、大凌河・松錦の戦いで明軍を打ち破りつつ寧遠では苦戦した過程を描く。天啓七年(1627年)から崇禎十六年(1643年)の皇太極死去・世祖即位までの17年間。

年表(16件)

明熹宗天啓七年(1627年)

  • 満洲主皇太極、寧遠巡撫袁崇煥に和議を持ちかけるが決裂。朝鮮に出兵し、義州・平壌などを攻略。三月に兄弟の国として和約が成立(丁卯胡乱)。貝勒阿敏は退去に際し三日間掠奪を行った。
  • 再度遼西へ大挙進攻したが、寧遠で袁崇煥の防戦に敗退。錦州攻めも壕に阻まれ、大凌河・小凌河の城を破壊して撤退した。
  • 崇煥は魏忠賢の讒言で職を退き、王之臣が代わった。八月、熹宗崩御し思宗が即位。十一月、魏忠賢誅殺。

崇禎元年(1628年)

  • 袁崇煥、薊遼督師に復帰。

崇禎二年(1629年)

  • 崇煥、皮島総兵毛文龍を計略で誘い出し独断で処刑。以後島の兵は離反し、孔有德・耿仲明・尚可喜ら島の武将が相次いで満洲に降った。
  • 皇太極、蒙古の喀喇沁を嚮導として喜峰口から長城を破り北京に迫る(己巳の変)。遵化陥落、巡撫王元雅は自殺、趙率教は戦死。満桂ら奮戦するも、反間計により袁崇煥は「満洲と密約あり」と讒言され投獄された。
  • 満洲軍は固安・良郷を攻略、満桂は戦死。

崇禎三年(1630年)

  • 満洲軍は永平を攻略するが、劉之綸ら明軍が西洋式大砲で反撃するなど各地で抵抗、之綸自身も戦死しつつ善戦した。
  • 満洲軍撤退後、張春らが復州を攻め、関内四城(遷安・永平など)は明が回復した。

崇禎四年(1631年)

  • 満洲軍、築城中の大凌河城を包囲。督師孫承宗の援軍(邱嘉禾・呉襄・宋偉ら)を撃破。守将祖大寿は籠城三ヶ月、糧尽きて開城降伏(のち帰順を装い錦州へ戻った)。

崇禎五年(1632年)

  • 満洲は察哈爾部を攻め、部長林丹汗は西に逃れ、その部衆の多くが降伏した。

崇禎七年(1634年)

  • 満洲軍、宣府・大同方面(龍門・新城・懐仁など)に侵攻するも大きな戦果なく撤退。この年、察哈爾部長林丹汗が病没、その妻竇土門福晋が帰順し妃として迎えられた。

崇禎八年(1635年)

  • 貝勒多爾袞、察哈爾の残余部を接収。林丹汗の子額哲が元の伝国璽を献じて降伏した。

崇禎九年(1636年)

  • 皇太極、国号を「清」、元号を崇徳と改める。朝鮮のみ反発したため(実は通訳の誤訳による行き違いだったとされる)、朝鮮への出兵を決定。
  • 阿済格らが辺境を掠め、皇太極自ら朝鮮を親征し、南漢山城を包囲した(丙子胡乱)。

崇禎十年(1637年)

  • 清主、漢江を渡って進撃。中国(明)は流賊対応に追われ朝鮮への援軍を出せず、朝鮮王は南漢山城から降伏し、王子を人質に差し出して和約が成立した。

崇禎十一年(1638年)

  • 多爾袞・岳託ら塞に侵入し、薊遼総督呉阿衡が戦死。盧象昇は主戦、楊嗣昌は和議を主張し対立、援軍を得られなかった象昇は鉅鹿で孤軍のまま清軍に包囲され力戦の末戦死、全軍が全滅した。
  • 帝と楊嗣昌との対話の逸話も伝わる(帝は「天下一統の今、辺境の異民族相手に大げさな言を弄するな」と嗣昌を厳しく戒めた)。

崇禎十二年(1639年)

  • 清軍、山東に進撃し徳王由枢を捕らえる。孔有德らが松山城を包囲するも副将金国鳳の死守で陥落せず撤退した。

崇禎十三年(1640年)

  • 清軍、錦州・寧遠を攻略対象とし、長期にわたり包囲戦を継続するも決着つかず。

崇禎十四年(1641年)

  • 清軍、錦州を包囲。洪承疇率いる明の大軍(総兵八名・十三万)が松山城北で対陣(松錦の戦い)。皇太極自ら出陣して包囲、呉三桂ら六総兵が敗走し多数が海で溺死した。

崇禎十五年(1642年)

  • 松山城陥落、総督洪承疇が捕虜となり、巡撫邱民仰・総兵曹変蛟らは戦死。錦州の祖大寿も降伏。清は洪承疇を厚遇し、後に降伏を受け入れさせた(北京では殉死と誤伝され帝が祭壇まで設けたが、生存の報が届き中止された)。
  • 兵部尚書陳新甲、和議交渉の失敗(機密漏洩)の責を負い処刑。清軍、山東方面に大挙侵入し88城を攻略した。

崇禎十六年(1643年)

  • 清軍、山東から北京近郊まで進出。大学士周廷儒は督師を自称するも進軍せず、清軍撤退を自らの功と偽って報告した。
  • 八月、清主皇太極が没す(享年58、宸妃の死を悲しんだことが遠因とされる)。子の福臨が即位(世祖、翌年より順治元年)。李自成の乱に乗じ、呉三桂の要請を受けて清は中原へ進出することとなる。