清史演義第九十六回 二顕官譴を被り籍に回る/衆党員血を流し冤を埋む (二顯官被譴回籍  眾黨員流血埋冤)

袁世凱の失脚

  • 攝政王載澧は光緒帝の遺恨を晴らそうと親王らを集め、光緒帝直筆の遺書を見せる。そこには「袁世凱を死刑にせよ」と記されていた。戊戌政変の際、光緒帝が袁世凱に榮祿を殺すよう密命したにもかかわらず、袁がこれを裏切って榮祿に密告し、太后の再訓政・帝の幽閉を招いたことへの深い恨みであった。
  • 慶王奕劻は禁軍を掌握する袁を厳罰すれば兵変を招くと諫め、攝政王は不本意ながら寛大な処置に留める。袁は自ら足の病を理由に辞職を願い出て、河南項城の郷里へ帰った。攝政王は端方を直隷総督に据えて京畿の守りとした。

隆裕太后の水晶宮と慈禧の奉安

  • 隆裕太后は御花園の一角に水晶宮(靈沼軒)と呼ばれる邸を築き、慈禧太后の追善のため紙製の巨大な法船を焼納するなど、莫大な費用を浪費した。
  • 慈禧太后の霊柩を東陵へ奉安する儀は光緒帝の葬儀の倍以上の費用(百二十五万両余)を要し、国庫を大いに圧迫した。
  • 奉安の際、直隷総督端方が差し向けた者が隆裕太后を隠し撮りしたことが発覚し、太后は激怒。攝政王のとりなしでかろうじて死罪を免れたものの、端方は革職・帰郷処分となった。

端方の風刺聯

  • 端方は滑稽な聯語を作って同僚を揶揄する癖があり、無学ながら成り上がった趙有倫や、頑迷固陋な何乃瑩を風刺する聯を残していたことが紹介される。こうした軽口が同僚の反感を買っており、今回の失態も相まって革職に至った。

立憲請願運動の挫折

  • 端方失脚の後、列強は次々に中国利権をめぐる密約を結び、国情は危機を深めるが、満洲貴族はなお享楽に耽っていた。各省諮議局は速やかな国会開設を求めて代表を上京させ、繰り返し請願書を提出したが、清政府は「時期尚早」として先延ばしにし続けた。

汪兆銘の暗殺未遂

  • 革命党員の汪兆銘は民報社での活動を経て北京に潜入し、同志黄樹中と共に攝政王暗殺を企て、地雷を仕掛けるが発覚し逮捕される。
  • 取り調べにあたった民政部尚書善耆に対し、汪兆銘は満洲人統治への怒りと立憲・国会開設が実現しない現状への絶望を堂々と述べる。二人は互いに「首謀者は自分だ」と言い張り、善耆はその義気に感じ入って死罪を免じ、終身禁固とすることとした。攝政王はこれを了承し、二人は法部の獄に収監された。

広州蜂起(黄花岡の役)

  • 汪兆銘らの失敗を受け、趙声・黄興ら革命党の首領は広東を根拠地とすべく再挙を図る。南洋から資金・武器を調達し、女性党員を使って広州へ運び入れ、蜂起の準備を進めた。
  • ちょうどこの頃、広東出身の馮如が自作の飛行機を試験飛行させ評判となる。広州将軍孚琦がこれを見物した帰路、革命党員温生財に狙撃され死亡した。温生財は取り調べに対し「同胞のための復讐であり、自分一人の意志による」と堂々と述べ、処刑された。
  • 温生財の事件で警戒が強まる中、黄興は「引くに引けない」との理由から予定通りの決行を主張し、宣統三年三月二十九日、決死隊が総督衙門に突入する。しかし総督張鳴岐はすでに脱出しており、水師提督李准が兵を集めて反撃、革命党は各所で交戦の末に敗退し、多数が戦死・処刑された。
  • 戦死した党員は後に黄花岡に葬られ、著名な八十九名の氏名が書き連ねられている。趙声・黄興・胡漢民・李燮和らは香港へ脱出して難を逃れたが、趙声は間もなく病死した。

評語

  • 攝政王載澧の三年の監国について、著者は「大きな失政はなかったが、国勢は日に日に危うくなった」と評し、その罪をすべて攝政王一人に帰すのは酷であるとしつつも、無罪とも言い切れないとする。袁世凱・端方を厳しく処断した当初の果断さに反し、その後は身内・側近が権を握り無為に過ぎたことを批判し、革命党の勢いが増す中、清廷は敗北を重ねるたびに油断を深め、ついには手の施しようがなくなったと結ぶ。広州の一役は、革命党にとっては悲劇であったが、清朝にとっては滅亡の予兆であったと評する。