清史演義第八十七回 慈禧后、三たび臨朝す/維新党六人命を畢う (慈禧后三次臨朝 維新黨六人畢命)
密告と戊戌政変の発動
袁世凱は昼に天津へ赴き、栄祿は同日夕方に急遽北京へ入り、太后の御前に跪いて「密謀」を訴え、光緒帝が渡した小箭を証拠として差し出した。太后は激怒し、満洲の親貴・守旧派の重臣を招集して訓政の再開を決定、栄祿に禁城の護衛交代と天津での康党捕縛を命じた。
康有為の脱出
光緒帝に近しい孫太監がこの動きを察知し、光緒帝は康有為に急ぎ上海へ向かうよう促す偽装の諭旨を送った。康有為はこれを読んで危機を悟り、単身列車で天津・上海方面へ脱出。栄祿の到着後には既に南下しており、上海道の追跡も及ばず、呉淞口で英国艦に救われ香港へ逃れた。梁啓超も塘沽から日本船で脱出し、日本で康有為と合流、以後二人は亡命生活の中で言論活動を続けた。
光緒帝の幽閉と珍妃の抗弁
八月六日、光緒帝は突然瀛台に軟禁された。太后は光緒帝を厳しく叱責し、廃立をほのめかしたが、珍妃が皇后を押しのけて光緒帝を庇い、太后に反論したため平手打ちを受け、幽閉された。太后は光緒帝の名で「太后の訓政再開」を告げる上諭を出させ、事実上の廃立に等しい状態となった。
戊戌六君子の処刑
太后は維新派を弾圧し、楊深秀・譚嗣同・楊鋭・林旭・劉光第・康広仁の六人を捕らえ、審理を経ずに処刑した(戊戌六君子)。太后はさらに康有為・梁啓超を大逆の首謀として全国に指名手配する上諭を発し、新政の諸施策の大半を撤回した。世論は六君子を「殺身成仁」と讃え、弔詩も伝わった。
変法の失敗と余波
光緒帝は表向き臨朝を続けたが発言を封じられ、木偶同然の扱いとなった。太后は光緒帝の「病」を口実に名医を招いて診察させたが、実際は光緒帝に病はなく、儀礼の煩雑さで実質的な診察もできなかった。上海の経元善らが太后の親政継続を求める電報を送るなど世論の反発もあり、両江総督劉坤一をはじめ督撫の多くも廃立に反対、各国公使も懸念を示したため、光緒帝は名目上の帝位を保った。太后は栄祿を軍機大臣とし北洋軍を掌握させ、以後の政治の実権を固めた。
評語
維新諸子の功罪はすでに前回で論じた。慈禧太后の所業も、紳商の抗議や各国公使の反対がなければ呂后・武后のごとき暴挙に至った可能性がある。若き元英明な太后がここまで頑迷になったのは、維新派の性急さがかえって太后を追い詰めた結果ともいえる。密謀が露見して局面が一変し、あるいは海外に逃れ、あるいは刑場に散った――その代償はあまりに大きい。