清史演義呉侍御、屍諫して忠を効す/曾星使、功成り約を改む(第八 十回 吳侍御屍諫效忠 曾星使功成改約)
呉可読の屍諫
死をもって諫めた忠臣は、甘粛皋蘭出身の呉可読であった。かつて御史として烏魯木斉提督成禄を弾劾し左遷されていたが、光緒帝即位後に吏部主事として起用されていた。帝も先帝も相次いで崩じ、後継が定まらぬまま推移しているのを憂い、以前に廣安が上奏して斥けられたのを見て、自分のような身分の低い者が同じことを直言すればなおさら厳罰を受けると悟る。そこで遺書を残して自死し、吏部の上官に代奏を頼む。上官も彼の忠義を無下にできず、両宮太后に取り次いだ。
内容は、同治十三年の懿旨(嗣皇帝に皇子が生まれればその子を大行皇帝=同治帝の後嗣とする、という取り決め)を今のうちに明文化して将来にわたり動かぬものとするよう求めるものであった。自分は先帝に幾度も死を免れた恩があり、その余生を捧げてこの一事を訴えると述べ、清朝が子から子へ伝える祖法を守り、名分を早く定めておくべきだと説いた。末尾では、自分の言が杞憂に終わって後世に笑われる方がむしろ本望だとまで述べ、死を賭した諫言であることを繰り返した。
両宮太后の裁定
両宮太后が奏文を読み、慈禧太后は内心不快ながら平静を装い、慈安太后に「もう明旨で決めたことなのに、また蒸し返すのか」と漏らす。慈安は「小身の主事が命を惜しまず言い上げたのは大したものだ」と評した。慈禧は結局、王大臣に諮って議定させることにする。清朝の家法では雍正帝以降、儲位を明示しない慣例があり、呉可読の求めに従えば建儲と変わらぬとして、王大臣たちは玉虫色の奏答をまとめる。徐桐・翁同龢・潘祖蔭や寶廷・張之洞らも別に上奏した。両宮太后は結局、従来の懿旨(嗣皇帝に皇子ができればその子を大行皇帝の後嗣とする)を再確認するに留め、呉可読の求める明文化は退けつつ、その忠義に免じて五品官の例で恤典を与えるとの懿旨を下した。これにより同治帝の後嗣問題は事実上棚上げされ、呉可読の死は名を残しただけに終わった。
新疆・伊犁を巡る左宗棠の平定
光緒五年、日本が琉球を滅ぼして沖縄県とし、清はこれに抗議したが日本は取り合わず沙汰止みとなる。折しも伊犁を巡る紛争も起こった。陝西の回民反乱の残党白彦虎が西域に逃れ、浩罕の阿古柏に身を寄せる。阿古柏は新疆の混乱に乗じて喀什噶爾を占領し自立していたが、清は当初これを放置していた。しかし左宗棠は甘粛平定後、華洋からの借款で軍資を整え、光緒二年より金順・張曜・劉錦棠らを率いて北路・南路から進撃、烏魯木斉以下を回復。阿古柏は逃げ場を失い服毒死し、その子伯克胡里と白彦虎はロシア領へ逃亡して新疆はほぼ平定された。左宗棠は二等侯、劉錦棠は二等男に叙せられた。
崇厚の伊犁条約と紛糾
新疆西北の伊犁は動乱に乗じてロシアが占領し、「一時的な保管」と称していた。清が回復を求めて吏部侍郎崇厚を全権としてロシアへ派遣したが、崇厚は臆病な人物で、天津教案の折の失態を知られていながら起用された。交渉でロシア側の要求に押され、伊犁城本体は返還されるものの西境・南境の要地を割譲し、賠償金五百万盧布を支払うなど、著しく不利な十八条の条約に無断で調印してしまう。朝廷や言官はこれに猛反発し、崇厚を罷免・治罪して開戦を主張する者も現れた。左宗棠も長文の上奏で、崇厚の議定した条約が伊犁を包囲される形にし、実質的な国益を損なうものであると厳しく批判し、外交と軍備を併せ論じて条約改訂を求めた。
曾紀澤による条約改訂
両宮太后は左宗棠の議を容れ、駐英仏公使の曾紀澤にロシアとの再交渉を命じる一方、李鴻章に艦隊整備を、劉錦棠・呉大澂・彭玉麟・劉銘傳・鮑超らに西域・東北・長江の防備を固めさせた。ロシアも軍艦を派して威嚇したが、曾紀澤は粘り強く交渉し、折しもロシア皇帝暗殺で新帝が和平路線をとったこともあって数か月がかりで条約を改訂させた。伊犁南境の返還、喀什噶爾・塔爾巴哈台の国境の修正、通商条件の緩和などを勝ち取り、代わりに賠償金を四百万盧布追加する内容で、光緒七年に調印された。崇厚の原案よりは大きく改善され、新疆は正式に行省となった。
慈安太后急逝の兆し
条約成立を受け沿海・沿江の戒厳も解かれ、平穏が戻ったかに見えた矢先、宮中から慈安太后が突然崩御したとの凶報が伝わる。作者は慈安太后を悼む詩を添え、王大臣たちの驚愕とともに次回へ続く。
評語
本回は呉可読・左宗棠の二つの上奏を掲げる。呉可読の説は迂遠に見えるが、これによって朝廷になお死を賭して諫める臣がいたことが分かる。左宗棠の議論は誇張気味だが、なお国事に通じた老将がいたことが分かる。光緒初年の小康はこうした人材に支えられていた。呉可読の建言は大局を動かさなかったとの見方もあろうが、諾々と迎合する朝臣の中で敢えて直言した意義は大きい。外交は兵力を背景にしてこそ成り立つもので、左宗棠が事前に戦備を固めていたからこそ、曾紀澤の弁舌も生きたのである。直臣が去り老臣が世を去れば、清もまた衰亡へ向かう。人材の重みはここに極まる。