清史演義第六十七回 四国威を耀し津門に約を脅す/両江血に喋え戦地に魂を埋む (四國耀威津門脅約 兩江喋血戰地埋魂)

四国艦隊の北上と清朝の対応

  • 広東を発った英仏米露の艦隊は上海を経て北京への書簡送達を求め、清廷は黄宗漢を欽差として広東へ派遣する一方、各国への回答を試みたが、英仏両使は天津へ直接向かった。

大沽砲台の失陥

  • 咸豐八年、四国艦隊が白河口に集結し交渉を求めるが決裂、英仏艦は大沽砲台を砲撃。守備は総崩れとなり炮台は次々陥落した。咸豐帝は激怒して将官を処罰し、僧格林沁を天津防衛に派遣した。

耆英の失敗と賜死

  • 和議のため老臣耆英が起用されるが、英側に過去の不誠実を詰られて面会すら拒否され、無断で帰京したことを咎められて自尽を命じられた。

天津条約の締結

  • 桂良・花沙納が交渉を継続し、公使駐京・内地遊歴通商・開港場の増設・長江通商・賠償金などを内容とする天津条約が英仏と締結され、露米とも同様の条約が結ばれた。

九江・吉安の陥落と江西平定

  • 湘軍は九江城を地雷戦で陥落させ、守将林啓栄・李興隆は戦死。吉安でも太平軍内部の内紛(李雅鳳が翟明海を殺害)に乗じて曾国荃が攻略した。

三河の戦いと李続賓の戦死

  • 江西平定後、李続賓は安徽へ進軍し太湖・潜山・桐城・舒城を攻略するが、陳玉成(四眼狗)の廬州包囲を救援すべく無理な進軍を続け、三河鎮で太平軍に幾重にも包囲される。
  • 諸将の制止を聞かず突撃を続けた李続賓は将士とともに壮絶に戦死し、曾国華ら多くの将も殉じた。安慶を囲んでいた都興阿も撤退を余儀なくされた。

曾国藩の全局構想と李孟群の戦死

  • 曾国藩は安徽・江西・福建の兵力配置を上奏し許可される。廬州が陥落し、安徽布政使李孟群は奮戦の末戦死した(妹の李素貞も先に漢陽の戦いで戦死していた逸話が語られる)。

石達開の湖南侵入と左宗棠の登用

  • 石達開が湖南に侵入すると、駱秉章は左宗棠を起用して防衛にあたらせる。左宗棠は以前、政敵の讒言により危うく処刑されかけたが、曾国藩・胡林翼らの助命嘆願で救われた経緯が語られる。
  • 左宗棠の指揮のもと李続宜らが石達開を撃退し、石達開は多大な損害を出して広西方面へ退いた。

曾国藩・胡林翼の交流と朝廷内の逸話

  • 曾国藩は湖北の胡林翼と再会し、官文(総督)との関係や柏葰処刑(科挙不正事件)などの朝廷内の出来事を語り合う。曾国藩も胡林翼の助言に倣い官文と融和し、安徽攻略の後顧の憂いを絶った。

評語

  • 前半は大沽失陥から天津条約締結に至る戦将の不甲斐なさを、後半は李続賓ら忠義の将の奮戦を対比して描く。
  • 桂良・花沙納には外交の才が乏しかった一方、曾国藩・胡林翼のような文武を兼ねた人材があったからこそ清朝は持ちこたえたとし、肅順・官文の器量の乏しさを暗に批判する。