清史演義第五十六回 怡制軍、巧みに台湾獄を結ぶ/徐総督、力めて広州城を捍る (怡制軍巧結臺灣獄 徐總督力捍廣州城)
台湾獄の決着
- 閩浙総督怡良は達洪阿・姚瑩の元上司ながら、これまで軍務を独占されてきた不満から審理の権を振るった。台湾に着任すると、百姓が両人の助命を訴えて轎を取り囲み、行轅にも押しかけて嘆願する騒ぎとなった。
- 怡良は表向き達・姚を庇う姿勢を見せつつ、密旨(隠蔽が発覚すれば怡良自身が処罰されるとの内容)を示し、両人に「英俘は実は遭難民であり、交戦の事実はなかった」という自白をさせるよう説得。達洪阿は当初反発したが、怡良が「戦意に駆られた過当行為」と取り繕う文言を書き添えると約束したため、やむなく従った。
- 怡良の上奏には「鋪張しすぎて指弾を招いた、咎めを免れない」との一文が加えられ、道光帝は達・姚を京へ召還し刑部で審理させた。結局、道光帝は在台での功労を考慮し、両人を免罪としつつ既に解かれた官職はそのままとした。
通商各国の拡大と広州入城問題
- 台湾の一件が片付く一方、仏・米も清の劣勢に乗じて通商を求め、耆英は道光二十四年に米国(柯身)・仏国(拉萼尼)とそれぞれ通商条約を結んだ。「利益均霑」の一語が後の紛糾の種となる。
- 南京条約で開港した広州では、英側が入城を求めたが広東の民が団練を組織し抵抗。英使ポッティンジャー後任のデイヴィスが入城を求めるも、広州知府劉浔が市中で百姓を辱めた一件をきっかけに民衆が蜂起し、劉の官署に乱入して衣冠を焼き払う騒動が発生。デイヴィスは香港へ退いた。
- 耆英は紳士に民衆の鎮撫を求めるが、逆に「戦うことなら従うが撫議には従わない」と拒まれ、密かに穆彰阿へ書を送って猶予を得て、英側には二年の期限で入城を約束して急場をしのいだ。
広東入城拒否と道光帝の激賞
- 道光二十七年、耆英は京へ召還され、徐廣縉が両広総督、葉名琛が広東巡撫に任じられた。
- 翌年、香港総督となった文翰が入城の約束履行を求めるが、広東紳士は「万難従わず」と結束。徐廣縉は虎門で文翰と会見し入城を拒否。
- 英艦が省河に侵入すると、徐廣縉は単身乗り込んで説得。その間、城内の義勇十万が両岸に整列して英軍を威圧し、文翰はついに入城要求を取り下げ、通商継続のみで手打ちとなった。
- 道光帝はこの顛末を大いに喜び、徐廣縉に子爵、葉名琛に男爵を授け、広東百姓の義気を讃える上諭を発した。しかし英側はその後も入城要求を繰り返し、諦めなかった。
道光帝の晩年
- 道光帝は即位以来倹約に努めたが、内満外漢の偏りや人材の乏しさに苦しみ、林則徐・鄧廷楨・楊芳ら有能な人材を退けた一方、琦善・弈山・弈經・文蔚・耆英・伊裡布ら凡庸な者を重用し続けた。御史陳慶鏞の直言で一時琦善らは処分されたが、二年も経たずに要職へ復帰した。
- 権相穆彰阿は乾隆期の和珅に比され、内外の混乱を招いた。皇太后の死や皇四子妃の病没も重なり、道光帝は憂いと病を深めていった。
評語
台湾の一件は民気の伸張を象徴する出来事であり、台民の一致した訴えがなければ達洪阿・姚瑩は冤罪を免れなかっただろう。広州の入城問題も、条約の文言があいまいだった落ち度は当局にあるが、民が一致して英に抗ったことは国民の力の証しである。ただし教育の裏付けがなければ民気は長続きしないとも指摘し、驕りが後の敗因になることを暗示して結ぶ。