清史演義第五十二回 関提督、粤中に殉難す/奕将軍、城下に盟を乞う (關提督粤中殉難 奕將軍城下乞盟)
琦善の失脚
- 家産没収の報に昏倒した琦善は、鮑鵬の慰めも空しく、義律らを酒宴でもてなして時を稼ぐしかなかった。
- 香港を無断で英国側に占拠させたことを咎める上諭が下り、これは巡撫怡良の上奏によるものだったと知った琦善は怡良を恨んだ。
- 怡良の上奏文には、義律が香港に布告を出し住民を英国民として服従させている状況への強い懸念が記されていた。
虎門の陥落と関天培の殉節
- 水師提督関天培は虎門の靖遠砲台で英艦を迎え撃ったが、援軍は来ず、負傷しながらも奮戦の末、味方が潰走する中で自刎して果てた。
- 虎門の各砲台が次々陥落し、大量の大砲が奪われ、烏湧でも総兵祥福以下が戦死、広州は危機に瀕した。
- 琦善は既に更迭され、参賛大臣楊芳が湖南兵を率いて入城し、巡撫怡良と防備を協議した。
楊芳の奮戦と米国領事の仲介
- 楊芳は東勝寺・鳳凰岡などの要地に兵を配し、英艦の侵入を辛くも撃退したが、琦善が撤去した防備の穴を埋めきれずにいた。
- 米国領事が仲介に入り、英側が「通商継続と引き換えに違禁品は没収に応じる」旨の書付を示したため、楊芳・怡良はこれを機に和議の上奏を行った。
- しかし道光帝はこれを「琦善の二の舞」として厳しく退け、あくまで討伐を命じた。
奕山の到着と林則徐の献策
- 靖逆将軍奕山、参賛隆文、総督祁貢が広東に着任し、まだ在地していた林則徐に意見を求めた。
- 林則徐は英艦を誘い出して沈船で退路を塞ぎ、火攻めで討つ策を献じたが、奕山は乗り気でないまま聞き流した。
- 折しも林則徐に浙江への転任の命が下り、広東を去ることとなった。
広州の攻防と屈辱の和議
- 奕山は義律の督促に押されて出撃を命じたが、緒戦の小勝の後すぐに反撃を受け、諸砲台が次々陥落。楊芳・隆文も苦戦を強いられた。
- 城内は混乱し、知府余保純の仲介で英側と和議が結ばれ、賠償金六百万圓の支払い、清軍の城外六十里への撤退、虎門からの英艦撤退などが取り決められた。
- 撤退の途上、参賛隆文が病没し、小子の詩(詩:和戦いずれも定見なき将帥の無策を嘆く趣旨)が挿まれて回は結ばれる。
評語
琦善が去ってまた奕山という庸将が来た。歴戦の楊芳ですら意見が用いられず、関天培のような忠臣も顧みられなかった。忠憤の士は徒に命を捨て、狡猾な者は保身に走る――辺事の乱れはここに極まる。琦善の逮捕には溜飲が下がる思いがしたが、続く奕山の体たらくにまた嘆息せざるを得ない。関天培らの殉難、楊芳・怡良の建言が退けられたこと、そして城下の盟約に甘んじた顛末は、涙なくして読めるものではない。