清史演義第五十一回 林制軍、慷慨して師を視る/琦中堂、昏庸にして国を誤る (林制軍慷慨視師  琦中堂昏庸誤國)

林則徐の防備

  • 開戦の報が届くと、清廷は林則徐を両広総督に任じて守備を固めさせ、鄧廷楨には福建の防備を命じた。
  • 林則徐は洋務に通じ、海外新聞を集めて情報を得ながら軍船・火船・壮丁を整え、獅子洋で水師を親閲するなど周到に備えた。
  • 道光二十年五月、英国艦隊が澳門沖に至ったが、林則徐の火船攻撃で撃退され、杉板船二隻を焼失させた。

英軍の北上と厦門・定海の攻防

  • 広東での上陸を諦めた英軍は間諜の進言で北上を決意し、厦門を攻めたが鄧廷楨・劉曜春の防備により撃退された。
  • 手薄な浙江の定海には防御が及ばず、総兵張朝発は海戦のみに頼って敗死し、知県姚懐祥も自刃して果てた。
  • 定海陥落の報に道光帝は伊裡布を浙江へ派遣する一方、英軍は天津へ矛先を転じた。

琦善の登場と和議交渉

  • 軍機大臣穆彰阿は林則徐と不仲で、林則徐の強硬策を非難し和議を主張、直隷総督琦善もこれに同調する上奏を行った。
  • 天津に至った英領事義律は琦善に六か条の要求(賠償・通商港開放・対等礼・賠償金・アヘン免責・商費撤廃)を提示し、琦善は宴席で英将校の威圧に怯えて広東での交渉を約束した。
  • 道光帝は琦善を欽差として広東へ赴かせ、林則徐・鄧廷楨は職務怠慢を咎められて処分を受けた。

琦善の失策

  • 広東に着任した琦善は前任者の落ち度を探したが見当たらず、逆に沿海の防備を勝手に撤去し、水勇を解散させてしまった。
  • 通訳の鮑鵬(元英商買弁)を重用したため、義律は琦善の無能を見抜いて増強を進め、香港割譲を含む最後通牒を突きつけた。
  • 琦善が回答を渋る間に沙角・大角両砲台が陥落し、陳連升らが戦死。李廷鈺の増援要請にも琦善は及び腰で対応した。

仮条約と道光帝の激怒

  • 追い詰められた琦善は義律と蓮花城で会見し、賠償金七百万圓の支払いと香港割譲、広州開放を内容とする仮条約を結んでしまった。
  • 道光帝はこれを許さず、奕山を靖逆将軍、楊芳・隆文を参賛大臣として広東へ派遣し、琦善の専断を厳しく叱責する上諭を下した。
  • 琦善は大学士・花翎を剥奪され、さらに家産没収の報に接して昏倒する。次回、その後の行く末が語られると予告される。

評語

アヘン焼却の断行は行き過ぎとも見えるが、各地に林則徐・鄧廷楨のような人材がいれば英軍とて容易に手が出せなかったはずである。禍根は「柔弱を恐れず孟浪を恐れる」との道光帝自身の言にありながら、実際にそれを体現したのは林・鄧の二臣に過ぎない。穆彰阿のような佞臣が賢を妨げ国を病ませ、琦善のような奸党が忠良を貶めたことこそ、百年の禍いを醸した元凶である。世人はアヘンの禍を林則徐に帰すが、真の責めは彼らにこそある。