清史演義第四十一回 太和殿にて禅を受け帝統を承く/白蓮教乱を倡え兵災を醸す (太和殿受禪承帝統 白蓮教倡亂釀兵災)

乾隆帝の文治と紀昀

乾隆帝は武功のみならず学問振興にも力を注ぎ、博学鴻詞科の開設や『四庫全書』編纂などを行った。総裁を務めた紀昀は博識で機知に富み、ある夏の日、館内で暑さしのぎに裸で書見していたところ乾隆帝の来訪に慌てて机の下に隠れ、去ったと思って「老頭子はもう行ったか」と口走ったところ、まだそこに座っていた乾隆帝本人に見つかってしまう。紀昀は機転を利かせ「老・頭・子」の三文字を皇帝の徳になぞらえて釈明し、乾隆帝はその才知に感心して不問に付した。以後紀昀は篤く信任された。

文字の獄

一方で乾隆帝は文士を厚遇しつつも猜疑心も強く、胡中藻・鄂昌・沈徳潜・王錫侯・徐述夔らが、詩文中のわずかな表現を口実に処刑・追罰・断罪される「文字の獄」が相次いだ。乾隆朝の文字の獄は雍正朝に劣らぬ規模であった。

和珅の専横

専制の世では君主に迎合する佞臣が重んじられ、乾隆晩年には大学士和珅がその筆頭として権勢を振るった。乾隆帝は和珅を寵愛し、自らの第十皇女を和珅の子・豊紳殷徳に嫁がせるほどであった。皇女が幼い頃から和珅を「丈人」と呼んで慕った逸話や、和珅が皇女の求めに応じて衣を買い与えた話などが伝わる。和珅は三十年にわたり権力を独占し、私財は皇室をも凌いだ。その家僕劉全の不正を告発した御史曹錫寶も、逆に誣告の罪を着せられるほどであった。

内禅の決定

乾隆帝は諸王大臣を集め、太子に譲位して太上皇となる意向を示す。和珅は自らの寵勢が衰えることを恐れ、堯舜の故事を引いて在位継続を勧めたが、乾隆帝は即位の際「在位六十年に及べば譲位する」と天に誓った経緯を説き、意志を変えなかった。皇十五子顒琰(後の嘉慶帝)を皇太子に立て、翌年を嘉慶元年として内禅の礼を行うことを定めた。皇太子は和珅の追従に冷淡に応じ、和珅は不安を覚える。

苗族の反乱

湖南・貴州境の苗嶺地方では、漢民の移住による土地紛争から苗族の不満が高まり、貴州の石柳鄧、湖南の石三保・呉隴登・呉半生・呉八月らが相次いで蜂起した。清は劉君輔・福寧・福康安・和琳らを動員して鎮圧にあたり、貴州の乱はほぼ平定したが、乾州は呉八月らが拠って「呉王」を自称するなど、なお抵抗が続いた。

嘉慶元年の内禅式と白蓮教蜂起

嘉慶元年元旦、太和殿にて内禅の大典が行われ、乾隆帝は太上皇となり、皇太子が即位して嘉慶帝となった。全国の租税を免除し大赦を行うなど盛大な式典であったが、その直後、湖北の枝江・宜都で聶傑人・劉盛鳴ら白蓮教徒が蜂起し、続いて当陽・襄陽・保康など湖北各地で林之華・姚之富・斉王氏らが相次いで挙兵、白蓮教の乱は瞬く間に湖北全域に広がった。

白蓮教の淵源

白蓮教は元末の韓林児、明末の徐鴻儒などに遡る古い結社で、乾隆年間には安徽の劉松が河南鹿邑で邪教を広め、処罰後もその徒劉之恊・宋之清らが川・陝・湖北で布教を続けた。劉之恊は偽の「真命天子」を担ぎ出して騒動を起こし、官憲の摘発を金で逃れる一方、無実の百姓が多数捕えられ拷問された。「官逼民反」(官が民を反乱に追いやる)の風潮の中、塩・銭の統制で困窮した民も加わり、教徒は急増した。

剿討の混乱

和珅の党羽と化した将帥たちは賄賂次第で戦況を左右し、嘉慶帝は太上皇の寵臣である和珅に配慮して強く手を出せぬまま、永保・恒瑞・畢沅・鄂輝らに各地の討伐を分担させた。中でも斉林の妻・斉王氏は夫の戦死後に軍を率いて各地を転戦し、武勇・美貌ともに際立った女頭目として官軍を苦しめたが、豪雨による洪水で武昌への侵攻を阻まれた。湖北の乱はやがて一応の鎮圧を見たが、今度は四川の達州で徐天徳・王三槐・冷天禄らが新たに蜂起し、事態は収まらなかった。

評語

乾隆帝は内禅を「聖祖(康熙帝)の在位年数に及ばぬよう」との謙譲として語るが、実際は名を譲っても実権は手放さぬ企てであった。しかし歴代の国力はすでに和珅一人によって蝕まれ尽くしており、内禅・改元と同時に白蓮教の乱が四方に起こったのは偶然ではない。乱の淵源をたどれば和珅の専横と、それを許した乾隆帝の用人の誤りに帰する。