清史演義第三十三回 虎将を畏れ准部和を乞う/龍髯を望み苗疆に遺恨を留む (畏虎將准部乞修和 望龍髯苗疆留遺恨)

準噶爾との抗争

  • 逃亡した羅卜藏丹津は準噶爾部の策妄阿布坦を頼るが、雍正五年に策妄が没し子の噶爾丹策零が継ぐと、雍正帝は傅爾丹(北路・靖遠大将軍)と岳鍾琪(西路・寧遠大将軍)に伊犁への進撃を命じる。出陣の日には不吉な大雨が降ったと語られる。
  • 羅卜藏丹津は噶爾丹策零の暗殺を謀るが露見して捕らえられ、噶爾丹策零は丹津を献上すると申し出たため両将軍はいったん召還されるが、その隙に準噶爾軍が巴裡坤南境を急襲し牲畜を掠奪。清将の急派によりようやく撃退する。
  • 傅爾丹は勇にはやり謀略に乏しく、降兵の偽情報を疑う部下の忠告を退けて副将軍巴賽の部隊を先発させたところ、和通泊で準噶爾軍の伏兵に包囲され全滅。傅爾丹自身も総崩れとなり、わずかな親兵とともに命からがら逃げ帰る大敗を喫する。

策凌の活躍

  • 大敗の後、順承郡王錫保が大将軍を代行。準噶爾軍はさらに外蒙古へ進出するが、元の宗室の後裔で三音諾顏の号を継ぐ策凌がこれを迎撃し、敵将喀喇巴図魯を討ち取って撃退、親王に封じられ独立部を立てる。
  • 雍正十年、準噶爾軍が再び策凌の本拠を急襲して子女・牲畜を奪うと、策凌は「飛毛腿」の異名を持つ偵察兵の情報を頼りに夜襲を敢行し、額爾徳尼寺付近で敵軍を大破。奪われた財産をすべて奪還する大勝を収めるが、友軍の丹津多爾済やマルセらが出撃を怠ったため敵将噶爾丹策零本人には逃げられる。責任者は処罰され、策凌は超勇親王に、平郡王福彭が新たな定辺大将軍に任じられた。

岳鍾琪の失脚と和議

  • 西路の岳鍾琪も部下の怠慢や戦術批判(車営戦法が騎兵に対応できないとの弾劾)を受けて大将軍職を解かれ、最終的に拘禁される。
  • 後任の張廣泗が守りを固める中、噶爾丹策零から和議の申し入れがあり、雍正帝は諸将の消耗を理由に撫を選択。乾隆二年、アルタイ山を境とする和平がようやく成立する。

苗疆の乱

  • 雲南・貴州に古くから住む苗民(蚩尤の後裔と伝えられる)は土司による自治が続いていたが、雲貴総督鄂爾泰が「改土帰流」(土司を廃して直轄統治とする)を献策し、雍正帝の強い支持を得て断行。剿撫を併用して数年で雲貴の生苗二千余寨を帰順させる大功を挙げ、伯爵に叙される。
  • 雍正十三年、貴州の生苗が再叛し、援軍派遣も指揮系統の不統一(哈元生と巡撫元展成の不和、後任の張照の撫の主張と哈元生・董芳の対立)で鎮圧が難航。副将馮茂による降苗虐殺が反乱を拡大させる一因となる。
  • 朝廷では鄂爾泰の改流策を批判する声が強まり、鄂爾泰は伯爵を辞退するに至る。

雍正帝の急逝

  • 苗疆問題を憂慮していたある日、雍正帝が突然発病し急死する。鄂爾泰・荘親王允祿・果親王允礼らが駆けつけるが死因は明らかにされず、乾清宮の「正大光明」額裏の密匣から「皇四子弘暦を皇太子とする」との遺詔が取り出され、弘暦(乾隆帝)が即位。四大臣(允祿・允礼・鄂爾泰・張廷玉)が輔政にあたることとなる。
  • 雍正帝の急死の背景は当時から詳らかにされず、以後は妃嬪の入侍に厳重な作法(裸で運び入れる等)が定められたと伝えられ、暗殺(呂四娘による復讐説)を仄めかす詩が引かれる。

評語

対外的には戦って後に和すべきであり、剿と撫は表裏一体である。世宗が剛毅に開戦を決めたのは是としつつ、無能な傅爾丹を用いたために和通泊の大敗を招いた点、苗疆の乱の責は鄂爾泰よりむしろ張照・董芳らにある点を指摘し、将才の重要性を説く。世宗は自らの明察を誇ったが、その明察さゆえに身を滅ぼした面もあるとし、暗殺説(呂四娘伝説)にも触れつつ、過度な猜疑・明察は慎むべきだと結んでいる。