清史演義第二十二回 滇中に逆謀を蓄え変を生ず/藩鎮を撤し朝廷兵を用う (蓄逆謀滇中生變  撤藩鎮朝右用兵)

鼇拜処分と康熙帝の親政

  • 康熙帝は鼇拜の罪状を審理させ、正式な処断の詔を下す。鼇拜は死一等を減じられ、官職剥奪・財産没収のうえ幽閉となる。与党の班布爾善・穆裡瑪ら側近は処刑され、遏必隆は太師などの称号を削られるにとどまった。
  • これにより朝廷の内外は康熙帝の英明さを認識し、以後粛然とするようになる。

三藩撤藩の議

  • 広東の平南王尚可喜は、素行の悪い息子・尚之信への継承を避けるため、自ら引退を願い出て藩を撤することを申し出る。
  • 呉三桂は情報をいち早く得て、自らも先手を打って撤藩を願う上奏文を送り、靖南王耿精忠(父耿継茂の跡を継ぐ)もこれに倣う。恭順を装いつつ実は朝廷の出方を試す狙いがあった。
  • 康熙帝は群臣の慎重論を退け、藩鎮が長く重兵を握る弊害を説いて撤藩を決断。雲南・広東・福建にそれぞれ勅使を派遣する。

呉三桂の挙兵準備

  • 呉三桂は撤藩が本当に実行されると知って動揺し、腹心の夏国相・馬寶と密議、あくまで自立の方向で兵を整える。
  • 勅使を迎える段になって、財産を将士に分け与えるふりをして忠誠心を煽り、わざと明朝の衣装に着替えて永暦帝の墓前で慟哭する芝居を打つ。将士が「王のために北京を討つべし」と沸き立つよう仕向け、最終的に勅使を捕らえ、雲南巡撫朱国治を殺害させる。
  • 呉三桂は「天下都招討兵馬大元帥」を称して挙兵し、明の遺臣を装う檄文を発する。実際には崇禎帝の三太子擁立を口実にした自らの権力掌握が目的であった。甲寅年(康熙十三年)を周元年とし、蓄髪・易服を命じる。

陳圓圓とのやりとり

  • 挙兵の夜、継室の張氏(人質として京にいる子・応熊の母)が三桂に取りすがるが、三桂は取り合わない。
  • 寵妃の陳圓圓は三桂に対し、栄華への執着を捨てて隠棲することを勧めるが、三桂は既に後戻りできない立場にあるとして応じない。陳圓圓はやがて別居して静かに暮らし、三桂の没落前に病死する。

雲南失陥の急報と康熙帝の対応

  • 貴州巡撫曹申吉、提督李本深らも呉三桂に呼応。雲貴総督甘文焜は追い詰められて子を殺し自らも自刃する。
  • 急報を受けた康熙帝は動揺する群臣を抑え、撤藩を進言した自分の責任は問わないとしつつ、勒爾錦・莫洛らを各方面の司令に任じて迎撃態勢を整える。呉三桂の官爵を剥奪し、人質となっていた額駙(婿)呉応熊を投獄する。

評語

藩鎮は古来、撤藩しても反乱、撤藩せずとも反乱を招くもので、遅く撤して禍根を深めるよりは早く撤して禍を除く方が容易い。康熙帝が撤藩を断行したのは英断であり、急報に際しても従容として動じなかった態度は、真に人並み外れた資質を示すものである。満漢の対立は清の側の責任ではなく、むしろ漢人である呉三桂こそが元凶というべきである。本回は呉三桂の狡猾さと康熙帝の英明さを対比して描き、陳圓圓の挿話は三桂の愚かさを一層際立たせている。