清史演義第二十三回 偽檄を馳せ四方響応す/勇将を失い三桂軍を回す (馳偽檄四方響應  失勇將三桂回軍)

四川・湖南への進攻

  • 呉三桂は王屏藩を四川へ、馬寶らを湖南へ進めさせる。湖南の清軍守備は長年戦を知らず総崩れとなり、長沙をはじめ常徳・岳州・衡州・澧州が次々に陥落する。
  • 四川巡撫羅森は湖広へ救援を求めるが得られず、提督鄭蛟麟がすでに呉三桂に通じていたこともあり、四川全土も呉軍に帰する。

耿精忠・尚可喜・孫延齡の動き

  • 福建の耿精忠も呼応して挙兵し、浙江・江西方面へ三路から出兵。広東の尚可喜だけは清に忠実であったため、呉三桂は耿精忠を通じて広東攻撃を命じる。
  • 康熙帝は各方面に大将軍を任命し(湖南方面に尚善、陝西・四川方面に洞鄂、江西方面に岳楽、浙江方面に傑書、江南に喇布)迎撃態勢を敷く。
  • 広西の孫延齢も呉三桂に呼応して巡撫を殺し降る。妻の孔四貞(孔有徳の娘)との不和も一因であった。

陝西の反乱(王輔臣の変)

  • 経略大臣莫洛は陝西入りするが、提督王輔臣らを高圧的に扱い恨みを買う。莫洛が満漢の人事入れ替えを図ったことも反発を招く。
  • 王輔臣は保寧での兵変をきっかけに部下に押される形で叛き、莫洛を寧羌で待ち伏せて射殺、投降兵を吸収する。清の貝子洞鄂は西安で手をこまねくばかりであった。

呉応熊の処刑と各地の攻防

  • 呉三桂は息子の助命と引き換えに和議を求めるが、康熙帝はこれを拒み、大学士明珠の進言により呉応熊とその子を絞殺する。西洋人宣教師南懐仁に命じて大砲を製造させ、軍事力を強化する。
  • 陝西では図海が撫遠大将軍として王輔臣の籠る平涼を包囲。虎山墩の要地を計略で奪い、糧道を断って輔臣を追い詰め、参議道周昌の説得により王輔臣は降伏する。

呉三桂、湖南へ後退

  • 呉三桂は松滋に進出していたが、江西方面で清の岳楽軍に押され長沙が危うくなったとの報を受け、湖南へ引き返す。清軍の勒爾錦・尚善らは呉三桂の帰還を知って退いたため、三桂は無事長沙に帰還する。
  • 長沙城外は馬寶が厳重に守りを固めており、三桂はこれを賞賛。夏国相の応援に猛将・高大節を派遣する。

評語

呉三桂は湖南を得た後も清軍が荊襄に集結していたため長江を渡って北上できずにいたが、王輔臣の反乱によって好機が生まれた。もし陝西・山西を経て北京を急襲していれば、荊襄の清軍主力は事実上無力化され、勒爾錦や尚善のような凡庸な将では呉三桂を止められなかったであろう。王輔臣の離反と降伏こそが呉三桂の成否を分ける鍵であり、王輔臣の顛末を詳しく描くことは、そのまま呉三桂の運命を描くことに等しい。