新五代史卷七十二 四夷附録第一 契丹

総論

史論

四夷は居所も飲食も水草や寒暑によって移り変わり、君長や部族の称号はあっても世襲の系譜や文字による記録を持たない。弓矢の強弱によって国土の大小や興亡が定まり、逐一考証するに値しないとも言えるが、中国に対して離反・帰順を繰り返し利害に関わる存在は無視できない。中国に道があれば必ずしも服属するとは限らず、無道であっても必ずしも来寇しないとは限らない。中国の盛衰に応じて夷狄を治外に置くこともあるが、羈縻して恩威を失わないことが肝要である。得ても利とならず、失えば患いとなることを慎まねばならない。ここに四夷附録を作る。 四夷の種族・称号は多く、大きなものは自ら中国に名を通じ、次に小さく遠いものは付記され、さらに微小で数え切れないものもある。その地は九州の外を環列し、なかでも西北は常に強く中国の患いとなってきた。三代には獫狁が『詩経』『書経』に見え、秦漢以来は匈奴が著名で、隋唐の間は突厥が最大となり、その後吐蕃・回鶻が強盛となった。五代の際に中国に名の知られた者は十七、八にのぼるが、契丹が最も盛んであった。

契丹の起源と部族制度

契丹は後魏以来中国に名が見え、庫莫奚と同類異種ともいう。その居所は尼嚕古穆稜(穆稜は河の意)といい、黄水の南・黄龍の北、鮮卑の故地を得たため鮮卑の遺種ともされる。唐代にはその地は北は室韋、東は高麗、西は奚国、南は営州に接した。部族の大きなものは達呼哩氏といい、後に達爾扎部・伊斯琿部・舎琿部・諾爾威部・頗摩部・納古齊部・濟勒勤部・實衮部の八部に分かれた。部の長は「大人」と号し、常に一人の大人を推して旗鼓を建て八部を統べたが、年を経て国に災疾があり畜牧が衰えると、八部が集議して旗鼓を次の者に立てて代えた。代えられた者もこれを約束として争わなかった。 ある部の大人「約尼」が立っていた時代、劉仁㳟が幽州を拠点に摘星嶺へたびたび出兵し、毎秋霜が降ると野草を焼いたため契丹の馬は多く飢死し、良馬を仁㳟に賂って牧地を求め、盟約を結んで謹んで従っていた。八部の人々は約尼を無能とみなし、衆の中から安巴堅(阿保機)を選んで代えた。安巴堅がどの部の出身かは不明だが、多智多勇で騎射に長じていた。

安巴堅の勃興と契丹建国

劉守光の暴虐により幽州・涿州の民の多くが契丹へ逃げ込み、安巴堅は隙に乗じて塞内に入り城邑を攻略し、その民を俘虜として唐の州県の制にならい城を築いて住まわせた。漢人が安巴堅に「中国の王に代立する者はいない」と教えたことから、安巴堅は威を増して諸部を制したが、自らは大人の位を譲らなかった。九年に及んで諸部が交代の遅さを責めると、安巴堅はやむなく旗鼓を返そうとしつつ、諸部に「九年の間に得た漢人が多い。自ら一部を立てて漢城を治めたい」と申し出て許された。漢城は炭山の東南、灤河のほとりにあり、鹽鐵の利があった(後魏の滑鹽県の地)。安巴堅は漢人を率いて耕作させ城郭・邑屋・市を幽州の制度にならって整え、漢人は安んじて帰郷を思わなくなった。 安巴堅は衆を用いうると見て、妻の舒嚕(述律后)の策により、諸部の大人に「私には塩池があり諸部が食べているが、塩の利を知りながら主人がいることを知らぬのはよくない、来て労うべきだ」と告げさせた。諸部が牛酒を持って塩池に集まったところを、安巴堅は伏兵で諸部の大人をことごとく殺し、以後代立の制を廃した。

後梁・後唐との交渉と称帝

梁が唐を簒奪しようとする頃、晋王李克用は使者を契丹に送り、安巴堅は兵三十万を率いて雲州東城で克用と会し、酒を酌み交わして義兄弟の約を結んだ。克用は厚く金帛を贈り共に梁を討つことを約したが、安巴堅は晋に馬千匹を贈った後、約を破って使者袍笏羙楞を梁へ送った。梁は太府卿高頃・軍将郎公逺らを答礼に派遣し、翌年安巴堅は使者嘉哩に良馬・貂裘・朝霞錦を持たせて梁へ送り、上表して臣と称し封冊を求めた。梁は公逺・司農卿渾特を遣わして詔書と記事を賜い、共に晋を滅ぼした後に甥舅の国として封冊することを約したが、契丹の子弟三百騎を京師の宿衛に入れる約束も交わされた。克用はこれを深く恨み、その年病没に際し矢一本を荘宗(後の後唐荘宗)に授け必ず契丹を滅ぼすよう遺言した。渾特らが契丹に至っても安巴堅は約を果たさず、梁もついに封冊しなかったが、梁の代を通じて契丹の使者は四度到来した。

荘宗との攻防

天祐十三年、安巴堅は晋を攻めて蔚州を落とし振武節度使李嗣夲を捕えた。この時荘宗はすでに魏博を得て梁と天下を争っており、李存矩に山北の兵を発せしめたが、祁溝関で兵が叛き偏将盧文進が存矩を殺して契丹に亡命した。契丹は新州を攻め破り、文進の部将劉殷に守らせた。荘宗は周徳威に殷を撃たせたが、文進が契丹数十万を引き入れ、徳威は退却して敗れ、幽州に籠城した。契丹はこれを包囲し、幽薊一帯は敵騎で満ち、捕えた漢人を木に縄で繋いだが、漢人は夜に多く自ら縄を解いて逃げた。文進はさらに契丹に火車・地道・土山による攻城法を教えたが、城中で銅鉄の汁を煮て浴びせたため近づく者は爛れ堕ちた。徳威は百余日籠城を守り抜き、荘宗は李嗣源・閻宝・李存審らを救援に送り、契丹は度々嗣源らに敗れてついに囲みを解いて去った。 契丹は他部族に比べ特に頑傲で、父母が死んでも哭かないことを勇とし、遺骸を深山の大木の上に置き、三年後に骨を取って焼き、酒を注いで「夏は日向、冬は日陰で食し、狩猟で多くの獲物を得させよ」と呪した。風俗は奚・靺羯とよく似ていた。安巴堅の代になると周辺の小国を次々に併せ服属させ、漢人を多く登用した。漢人は隷書を半減増損させた数千の文字を作り、木を刻んで記す旧来の約束事に代えた。また婚姻の制度や官号を定め、ついに皇帝を僭称して自ら天皇王と号した。居所の横帳の地名を姓とし「錫里」(訳者はこれを耶律という)とし、年号を天賛とした。居所を上京とし、その中に楼を建てて西楼と号し、東千里に東楼、北三百里に北楼、南の木葉山に南楼を建てて四楼の間を往来し狩猟した。契丹は鬼を好み日を貴び、毎月朔旦には東に向かって日を拝し、国事を議する大会も東向きを尊び、四楼の門屋もみな東向きであった。

鎮州をめぐる攻防と定州の乱

荘宗が張文礼を討って鎮州を囲んだ際、定州の王処直は鎮州が滅べば晋の兵が定州にも向かうと恐れ、子の王郁を契丹へ遣わして入塞させ晋兵を牽制させようとした。郁は安巴堅に「父処直は、旧趙王王鎔の六代にわたる鎮州の富(金帛・美女)を張文礼が奪ったが晋に攻められ滅びを恐れて留め置いている、皇帝を待っているのだ」と説き、安巴堅は大いに喜んだが妻の舒嚕は「わが西楼だけで娯楽は足りる、遠征して後悔しても遅い」と反対した。安巴堅は「張文礼の金玉百万を皇后と共に取ろう」と国を挙げて侵寇した。定州の人々は契丹を招いたことを危ぶんだが処直は聞き入れず、郁が出発した後、処直は子の都に廃された。安巴堅は幽州を攻めたが落とせず、涿州を攻略し、処直が廃されて都が立ったのを聞くと中山を攻め沙河を渡った。都は荘宗に急を告げ、荘宗は自ら鉄騎五千を率いて新城で契丹の前鋒と遭遇、晋兵は桑林から馳せ出て人馬の精甲が日に輝き、契丹は愕然として退き、晋軍が乗じて敵を敗走させた。沙河の氷が薄く敵は多く陥没し、安巴堅は望都に退いて守ったが大雪に遭い人馬の多くが飢寒で死んだ。安巴堅は盧文進を顧みて「天がまだ私をここに至らせぬのだ」と兵を引いた。荘宗がその宿営跡を見ると秸(わら)が整然と方形に並び去った後も乱れておらず、「彼の法令の厳格さはこれほどか」と嘆じた。契丹は何も得ずに帰ったが、この頃から中国を窺う志を抱くようになった。

渤海攻略と姚坤の応対

契丹はその後渤海を患いとし、渤海を撃とうとしつつ中国が虚に乗じることを懼れ、使者を送り唐と通好した。同光年間に使者が再び至り、荘宗が崩じると明宗は供奉官姚坤を告哀に遣わした。坤が西楼に着いた時、安巴堅は東方の渤海を攻めており、坤は慎州まで追ってこれに会った。安巴堅は錦袍大帯を着け、妻と穹廬の中で対座しており、坤を招き入れた。安巴堅が「河南北に二人の天子がいると聞くが真か」と問うと、坤は「天子は魏州の軍乱を総管令公(明宗)に討たせたが、洛陽で変が起き、総管は河北から兵を返して難に赴き、京師で衆に推されて即位した」と答えた。安巴堅は天を仰いで慟哭し「晋王とは兄弟の約を結んだ、河南の天子は我が子も同然、乱を聞き甲馬五万で助けようとしたが渤海征討が未了で果たせなかった、我が子が亡くなった以上、私に相談すべきなのに新天子はどうして自ら立ったのか」と述べた。坤は「新天子は将兵二十年、位は大総管に至り精兵三十万を領していた、天時人事はやむを得ない」と答えた。安巴堅の子托雲(東丹王)が「使者よ多言するな、田を通り牛を奪うようなものではないか」と口を挟むと、坤は「天に応じ人に従うのは匹夫の道理とは違う、天皇王(安巴堅)が国を得ても代立しなかったのと同じく強奪ではない」と反論し、安巴堅はこれを是として坤を慰労した。安巴堅はさらに「新天子は宮婢二千・楽官千人を抱え鷹狗遊猟と酒色に耽り不肖の者を用いていると聞く、それが敗因だ、私は禍を聞いて以来断酒し鷹犬を放ち楽官を解散した、我が部の楽官千人も公宴以外は用いない」と述べ、「もし我が子のようであれば長くは保てまい」と続けた。また「私は漢語を解するが部の者には一切話さない、漢に倣って怯弱になるのを恐れるからだ」と戒め、坤に先に帰るよう命じ、「甲馬三万をもって新天子と幽鎮の間で会し盟約を結ぶ、我に幽州をくれれば二度と侵さない」と告げた。安巴堅は渤海を攻めて扶餘の一城を取り東丹国とし、長子の人皇王托雲を東丹王とした。まもなく安巴堅は病死し、妻舒嚕がその喪を護って西楼へ帰り、次子の元帥太子耀屈之(後の徳光)を立てた。坤は西楼まで随行して還った。

韓延徽の事跡

安巴堅の時代、幽州の人韓延徽は劉守光の参軍であったが、守光の使者として契丹に赴いた際、安巴堅に拝礼しなかったため怒りを買い抑留され、羊馬の牧を命じられた。時を経てその才を知られ召し出されて謀主となり、安巴堅が党項・室韋を攻め諸小国を服属させたのは延徽の謀によるところが大きい。延徽はのちに逃げ帰って荘宗に仕えたが、荘宗の客将王緘に讒言され、恐れて幽州へ帰る途中常山で王徳明の家に匿われた。徳明が行方を問うと延徽は「契丹へ再び走ろうと思う」と答え、徳明が引き止めると「安巴堅は私を失って両目・両手足を失ったも同然だったろう、再び得れば必ず喜ぶ」と契丹へ戻った。安巴堅は果たして大いに喜び「天から降ったようだ」と述べ、延徽を相とし政事令に任じ、契丹ではこれを崇文令公と呼んだ。延徽は後に契丹で没した。

徳光の即位と対唐外交

耀屈之(安巴堅の後継)は後に名を徳光と改め、安巴堅を木葉山に葬って大聖皇帝と諡し、後にその名を億とも改めた。徳光は即位三年で改元して天顕とし、使者を送って名馬を唐へ贈り、安巴堅のための碑石銘文を求めた。明宗は厚く礼遇し飛勝指揮使安念徳を答礼に遣わした。 定州の王都が唐に反した際、唐は王晏球にこれを討たせ、都は蠟丸の書を契丹に送って援を求めた。徳光は托諾・策稜らに騎五千を率いさせて救援させたが、都と托諾は曲陽で晏球に敗れた。徳光はさらに持哩衮・和敏・益托諾に騎七千を率いさせたが、晏球はまた唐河でこれを破った。和敏は数騎で幽州へ走ったが趙徳鈞に捕えられ、晏球は定州を攻略し托諾・策稜を捕えて京師へ送った。明宗は和敏ら六百余人を斬ったが和敏は赦し、その壮健な者五千余人を選んで契丹直(近衛の一隊)とした。

東丹王托雲の失位と唐への亡命

安巴堅の死後、長子の東丹王托雲が立つべきところ、母の舒嚕は幼子の君(扶餘代理)を立てて後継させようとしたが、実は徳光を最も愛していた。徳光は智勇に優れ諸部にすでに服され、托雲がすでに国を去ろうとする中、諸部は舒嚕の意に沿って徳光を共立した。托雲は立てず、長興元年に扶餘から海を渡って唐に亡命した。明宗はその姓を東丹から改めて名を慕華とし、遼東から来たことから瑞州を懐化軍とし、慕華を懐化軍節度使瑞・慎等州観察処置等使に任じた。従った部曲五人にはそれぞれ姓名(罕友通・瑪古改め穆順義・薩喇改め羅賔徳・伊緜改め易師仁・哈里改め葢来)を賜い帰化・帰徳の将軍・郎将とし、先に捕えられた和敏には狄懐惠、聶哷には列知恩、策稜には原知感、福郎には服懐、伊聶濟には訖懐という姓名を賜い、その他契丹直となった者にもみな姓名を賜った。二年、托雲には李の姓と賛華の名を賜い、三年に賛華は義成軍節度使とされた。 契丹は安巴堅以来諸国を侵滅して北方に強を称したが、王都の救援で王晏球に敗れて万騎を喪い、和敏らの名将も失い、舒嚕は托雲を思って卑辞厚幣で幾度も中国へ使者を送り和敏・策稜らの返還を求めたが、唐はその都度使者を斬って応えなかった。この頃は中国の威が最も振るった時期であった。幽州の北七百里に榆関があり、関の東は海に臨み、北には兎耳山・覆舟山があってみな海に沿って切り立ち、東北には僅かに車の通る狭い路があり、その傍らは耕作可能であった。唐代には東西狹石・渌疇・米磚・長揚・黄花・紫蒙・白狼などの戍を置いて契丹を扼していたが、戍兵は自ら耕作し衣服のみ官給とし、長年幽州の民は田宅を得て子孫を養い守ることを己の利とした。唐末に幽薊が割拠すると戍兵は廃され、契丹は平・営を攻め落とし、幽薊の民は毎年寇掠に苦しみ、涿州から幽州までの百里は人跡が絶え、輸送は常に護衛の兵を伴った。契丹は多く鹽溝に伏兵を置いて奪掠した。荘宗の末、趙徳鈞が幽州を鎮めた際に鹽溝に良郷県を置き、幽州の東五十里にも城を築いて兵を置き、和敏らを破った後にはさらにその東に三河県を置いたことで、幽薊の民はようやく耕牧と輸送を通じられるようになった。

石敬瑭の挙兵と後晋の建国

徳光は西の庫哩泊に横帳を移し、雲朔の間へ度々侵寇した。明宗はこれを患い石敬瑭を河東に鎮させ大同・彰国・振武・威塞等軍を統べさせて防がせた。応順・清泰の間、遠近から調発された糧餉に人々は疲弊した。徳光は母(舒嚕)によく仕え、国事は必ず母に告げてから行った。 石敬瑭が唐に反すると唐は張敬達らにこれを討たせ、敬瑭は徳光に救援を求めた。徳光は母に「石郎が私を召す夢を見たが、使者が果たして来た、これは天意ではないか」と告げ、母は胡巫に占わせて「吉」と出たため許した。この年九月、契丹は雁門から出兵し車騎数十里に連なって太原に迫り、「今日破敵できるか」と敬瑭に問わせると、敬瑭は「速さより成功を要する、大兵が遠来し唐軍も盛んだから今少し待たれよ」と答えたが、使者が着く前に既に戦端が開かれ敬達は大敗した。敬瑭は夜に北門を出て徳光に会い父子の約を結び、「大兵が遠来してすぐに勝てたのはなぜか」と問うと、徳光は「唐兵が雁門や険要を守れば分からなかったが、深く侵入して阻むものがなければ必ず勝てると分かった、また兵が多く長期戦を避け神速を旨とした、これが勝因だ」と答えた。敬達は晋安寨に退いて守り、徳光がこれを囲むと、唐は趙徳鈞・延寿を救援に送ったが徳鈞父子は団柏谷で按兵し救わなかった。徳光は敬瑭に「三千里を義のために来た以上、最後までやり遂げる」と述べ、晋城の南に壇を築いて敬瑭を皇帝に立て、自らの衣冠を脱いで着せ、「爾は子、予は父」との冊文を与えた。まもなく楊光遠が張敬達を殺して晋に降り、晋高祖(敬瑭)は太原から洛陽へ入った。

趙徳鈞・延寿父子の顛末

徳光は潞州まで高祖を見送り、趙徳鈞・延寿は出て降った。徳光は高祖に「大事は成った、大相温を従わせ渡河させる、私はここに留まり爾の入洛を待ってから北へ帰る」と告げ、手を執り歔欷しつつ白貂裘を脱いで高祖に着せ、良馬二十匹・戦馬千二百匹を贈り「子々孫々忘れるな」と戒めた。時に天顕九年であった。高祖が洛陽に入ると徳光は北へ趙徳鈞・延寿を捕えて連れ帰った。徳鈞は幽州の人で劉守光・守文に仕えて軍校となり、荘宗が燕を伐った際に得られ李紹斌の姓名を賜った。子の延寿はもとの姓は劉氏、常山の人で、父の邧は蓚県令であったが、劉守文が蓚県を攻め破った際に徳鈞が延寿とその母种氏を得て養子とした。延寿は姿質妍柔で書史に通じ、明宗はこれに娘を娶せ興平公主と号した。荘宗・明宗の代を通じ徳鈞は十余年幽州を鎮め、延寿ゆえに信任が篤かった。延寿は明宗の時代に樞密使となり、罷免後廃帝の代に再び樞密使となった。晋高祖が太原で挙兵すると廃帝は延寿に討伐の兵を率いさせ、徳鈞も鎮兵をもって討伐を願い出た。廃帝はその異志を察し徳鈞には飛狐から出て背後を撃たせようとしたが、徳鈞は南の呉児会で延寿と合流し、延寿は兵を徳鈞に属させた。廃帝は徳鈞を諸道行営都統、延寿を太原南面招討使とし、徳鈞は延寿のために鎮州節度使を求めたが、廃帝は「徳鈞父子は強兵を擁して大鎮を求める、契丹を破り太原を平らげれば代を望んでもよいが、寇を弄んで君を要すれば犬兎ともに斃れることを恐れよ」と怒り、使者を送って進軍を促した。徳鈞は密かに徳光へ使者を送り、自ら帝位に立つことを求めたが、徳光は穹廬前の巨石を指して「私はすでに石郎に許した、石が爛れれば別だが」と拒んだ。徳光は潞州に至ると徳鈞父子を鎖して連れ去った。徳光の母舒嚕は徳鈞に「お前たち父子はなぜ天子になろうとしたのか」と問い、徳鈞は恥じて答えられず田宅の籍をことごとく献上したが、舒嚕は「幽州はすでに我らのもの、何を献上するというのか」と答えた。翌年徳鈞は死に、徳光は延寿を幽州節度使とし燕王に封じた。

遼の国制整備と後晋の臣従

契丹は荘宗・明宗の時代に営・平二州を攻略し、晋の建国後には雁門以北を得て幽州節度管内と合わせて十六州を有するに至り、幽州を燕京と改め、天顕十一年を会同元年と改め国号を大遼とし、百官を中国に倣って置き中国の人材を参用した。晋高祖は使者を送るごとに上表して臣と称し、毎年絹三十万匹のほか宝玉珍異から中国の飲食まで様々な物を貢し、使者は絶えず往来した。徳光は高祖に臣と称さず「児皇帝」として書を奉ることを約させ、家人の礼を取らせた。徳光は中書令韓熲を遣わして高祖に英武明義皇帝の冊を奉らせ、高祖も趙瑩・馮道らを遣わして太常鹵簿をもって徳光とその母に尊号を奉り、終世謹んで仕えた。

出帝との対立と開運の戦

高祖が崩じ出帝が即位すると、徳光は先に告げず表を奉らず臣とも称さず「孫」と称したことに怒り、幾度も使者を送って晋を責めた。晋の大臣はみな恐れたが景延廣だけは契丹の使者に不遜な対応をし、徳光はますます怒った。楊光遠が青州で反すると徳光はこれに応じ、開運元年春、国を挙げて南下し兵を三分し、西は雁門から并・代を攻めたが劉知遠が秀容でこれを破り、東は河を渡って博州を陥れ光遠に応じた。徳光と延寿は貝州を攻め落とし元城に屯し兵は黎陽に及んだ。出帝は親征し李守貞らを馬家渡へ馳せさせ契丹を破らせたが、徳光は晋と河を挟んで対峙すること月余、馬家渡の敗報を聞いて衆を率い戚城で戦った。徳光は陣頭で晋軍の旗幟が輝き士馬が整然としているのを見て「楊光遠は晋の兵馬が半ば餓死したと言ったが、これほど盛んとは」と懼れの色を見せた。両軍の死傷は相半ばし、日暮れて徳光は兵を引き、滄州・深州へ二手に分けて北帰した。二年正月、徳光は再び国を挙げて南下し鎮州を囲み鼓城など九県を攻略したが、杜重威は鎮州に籠って出なかった。契丹は邢・洺・磁を掠め安陽河に至るまで千里を焼き尽くした。契丹は大桑木を「紫披襖はお前から出た」と罵り薪を束ねて焼いた。この時出帝は病で親征できず張従恩・安審琦・皇甫遇らに防がせたが、遇は漳水を渡って契丹と榆林で戦い危うく捕えられかけたところを審琦が救った。契丹は塵の起こるのを見て救援と思い引き上げ、従恩は追撃せず黎陽へ退いた。契丹が北へ去った後、出帝の病が癒えて親征を発令し澶州に軍し杜重威らを北伐させたが、契丹は古北まで帰った所で晋軍の来着を聞き再び南下した。重威と陽城衛村で戦い、晋軍は水に飢え井戸を掘っても崩れ泥水を絞って飲んだ。徳光は奚車の中に座って「晋軍はすべてここにいる、生け捕って天下を平定せよ」と号令したが、大風が吹いて晋軍が死力を尽くして反撃し契丹は大敗、徳光は車騎・白橐駝を失って幽州へ逃れ、諸将は各々笞百を受けたが趙延寿だけは免れた。

開運三年の滅亡戦

この頃天下は旱蝗に見舞われ晋の民は戦に苦しみ、開封府軍将張暉を仮の供奉官として契丹に遣わし上表して臣と称し和好を修めようとしたが、徳光は不遜な返答をした。しかし契丹も戦を厭い、徳光の母舒嚕は晋人に「南朝の漢児はいつまで寝ていられるか、漢が蕃と和するとは聞くが蕃が漢と和するとは聞かない、漢児が本当に心を改めるなら通好を惜しまない」と語った。晋は使者を送らなかったが、しばしば書を趙延寿に送って招いた。延寿は晋の衰えと天下の乱を見て中国を窺う意があり、徳光もまた延寿に晋を滅ぼした後に立てることを約していた。延寿は晋の書を得て偽って好意を装い「敵中に陥り帰りたい、晋が兵を発すれば呼応する」と返答し、徳光の将高牟翰も瀛州をもって晋に偽降した。晋の君臣は喜び、三年七月、杜重威・李守貞・張彦沢らを延寿に応じさせて瀛州へ向かわせたが、牟翰は空城を捨てて去った。晋軍は城下に至り城門が開いているのを見て伏兵を疑い入城せず、梁漢璋に牟翰を追わせたが漢璋は戦死し、重威らの軍は武強に屯した。徳光は晋の出兵を聞くと鎮州へ侵入し、重威は西の中渡に屯し徳光と水を挟んで対陣した。徳光は兵を分けて西山沿いに晋軍の背後へ回らせ欒城県を攻め破り、県の騎兵千人はことごとく敵に降った。徳光は捕えた晋人の顔に「奉勅不殺」と刺青して南へ帰した。重威らは包囲され糧が尽きて全軍降伏した。徳光は喜んで趙延寿に「得た漢児はみな爾に与える」と述べ龍鳳赭袍を賜って着させ晋軍を安撫させ、重威にも赭袍を賜い、傅住児に張彦沢を監督させ騎二千を率いて先に京師へ入らせた。晋出帝は太后とともに降表を奉り過咎を陳べ、徳光は嘉哩に手詔を持たせ「孫は憂うることなかれ、ただ一食にありつく所を与えよう」と伝えた。

徳光の入京と晋の滅亡

徳光が京師に近づくと有司は法駕による奉迎を請うたが、徳光は「私は自ら甲冑をまとい中原を平定した、太常の儀に構う暇はない」と用いなかった。出帝と太后が郊外に出迎えたが徳光は「二人の天子が道で相見えることがあろうか」と会わなかった。四年正月丁亥朔、晋の文武百官は都城の北で望拝して帝に辞し素服紗帽で待ち、徳光は甲を被い貂裘帽で高岡に馬を立てて待たせた。徳光は封邱門から入城し城楼で「私も人間だ、懼れることはない、もとよりここに来る心はなかったが漢兵が私を招いたのだ」と諭させ、晋宮に入ったが嬪妓の出迎えには目もくれず、夕方赤岡に出て宿った。出帝を負義侯として黄龍府へ遷し、癸巳、契丹が晋宮の諸門を守り殿庭には犬を磔にして皮を掛けて厭勝とする中、入居した。甲午、徳光は本服のまま広政殿で視朝し、乙未には中国の冠服を被て百官が常参・起居するのを晋の儀のままとしたが、氈裘左袵の契丹兵と馬・奚車が階陛に並び、晋人は俯いて仰ぎ見ることができなかった。二月丁丑朔、金吾六軍・殿中省の仗・太常の楽舞が廷に陳ねられ、徳光は通天冠を被り絳紗袍を着て大珪を執って視朝し、大赦を行い晋国を大遼国と改めた(開運四年を会同十年とした)。

趙延寿の失望と張礪の処遇

徳光はかつて趙延寿に晋を滅ぼした暁には立てることを約していたため、契丹が晋を攻める際延寿は常に先鋒となり、掠奪した物はことごとく徳光とその母舒嚕に献じた。しかし徳光は晋を滅ぼしても延寿を立てる意はなく、延寿は自ら言い出せず李崧を通じて皇太子となることを求めた。徳光は「燕王のためなら私の皮肉すら惜しまぬが、皇太子は天子の子のことで燕王がなれるものではない」と述べ、遷秩して中京留守・大丞相・録尚書事・都督中外諸軍事とする案が翰林学士張礪から進められたが、徳光は録尚書事・都督中外諸軍事を筆で塗り消し中京留守・大丞相のみとし、延寿は元の樞密使・燕王のままとした。また張礪を右僕射兼門下侍郎同中書門下平章事とし旧晋の相和凝と共に宰相とした。礪は明宗の時代に翰林学士となり、晋高祖挙兵の際廃帝が礪に趙延寿を督させ団柏谷へ進軍させたが、延寿が徳光に鎖された際礪も共に契丹に連れて行かれ、徳光はその文学を重んじ翰林学士とした。礪は帰郷を望んで境上まで逃げたが追われて捕えられ、徳光が責めると礪は「私はもとより漢人、衣服・飲食・言語が違い、帰りたくても帰れず、生きるより死ぬほうがましだ」と述べた。徳光は通事の高唐英に「私はお前たちに彼を大切に扱えと戒めていたのに逃げられたのはお前の過ちだ」と述べ唐英を笞百に処し、以後礪をもとのように厚遇した。徳光が視朝する際、有司は延寿に貂蟬冠、礪に三品冠服を与えたが両者とも着けようとせず、延寿は別に王者の冠を作って自らを異にしようとした。礪は「私が上国にいた時、晋は馮道を遣わして北朝に二つの貂冠を献じ、一つは宰相韓延徽が、もう一つは私が冠した、今更これを降ろせようか」と述べ貂蟬を冠して朝した。三月丙戌朔、徳光は靴袍を着て崇元殿で百官の入閤を受け大いに悦び、左右に「漢家の儀物の盛んなことよ、この殿に坐ることこそ真の天子ではないか」と語った。母舒嚕は書と安巴堅の明殿の書を送って徳光に賜った。明殿とは中国の陵寝の下宮の制のようなもので、契丹の君が死んで葬られるとその墓の側に屋を建てて明殿と呼び、官属職司を置いて歳時に生前と同じように奉表・起居させ、明殿学士一人が答書・詔を掌り、国に慶弔があれば先君の命として書を作り君に賜った。この書は常に「兒皇帝に報ず」云々と結ばれた。

「打草穀」による民衆の疲弊と契丹の撤退

徳光は晋を滅ぼすと部族の諸豪や通事を諸州鎮の刺史・節度使とし、天下の銭帛を括り取って軍賞に充て、国の兵馬に糧草を給しなかったため、毎日数千騎を四方に分遣して人民を掠奪させた。これを「打草穀」といい、東西二、三千里の間、民はその毒を被り遠近が怨嗟した。漢の高祖(劉知遠)が太原で挙兵すると、多くの州鎮が契丹の守将を殺して漢へ帰した。徳光は大いに懼れ、また時節が暑くなったこともあり蕭翰を宣武軍節度使とした。翰は契丹の大族で号を阿巴といい、その妹も徳光に嫁いでいたが、阿巴はもとより姓氏を持たず契丹では国舅と呼ばれ、節度使とするに当たり李崧が姓名を蕭翰と定め、以後契丹の大族は蕭を姓とするようになった。徳光は翰に汴州の守りを任せ、北帰することとし、晋の内諸司の伎術・宮女・諸軍将卒数千人を従えて黎陽から河を渡り、湯陰の愁死岡に至ったとき宣徽使高勲に「私は上国では打囲・食肉を楽しみとしていたが、中国に入ってからは心が晴れなかった、もし本土に戻れれば死んでも悔いはない」と述べ、勲は退いて人に「これは死ぬだろう」と語った。相州の梁暉が契丹の守将を殺して閉城拒守したため、徳光は攻め破り城中の男子は老若を問わずことごとく屠り、婦女は北へ駆り立てた(後漢の王継弘が相州を鎮めた際、髑髏十数万を得て大冢に葬った)。徳光は臨洺に至り井邑の荒廃を見て晋人に「中国をこのようにしたのはみな燕王の罪だ」と嘲り、張礪にも「お前にも責任がある」と述べた。徳光は欒城に至って病を得て殺狐林で没した。契丹はその腹を裂き腸胃を取り出して塩を詰めて北へ運んだため、晋人はこれを「帝羓」と呼んだ。永康王烏雲が立ち、徳光を嗣聖皇帝と諡し、安巴堅を太祖、徳光を太宗と号した。