序――十国建元をめぐって
- 堯舜の代は盛徳であったが、夏殷周三代の王は功はあっても徳が及ばず、そのため「更始」して自ら新たにし、これによって正朔(暦の起点)を改めるようになった。後世に至ってはこれが単なる紀年・建元の慣習となり、僭窃(不正な称帝)が相次いで年号が入り乱れたため、区別せざるを得なくなった。
- 五代十国のうち称帝・改元したのは七国(呉・南漢・前後蜀・楚の一部・閩・北漢等)で、呉越・荊南・楚はおおむね中国(中原王朝)の年号を用いていた。しかし旧知の古老によれば、呉越もかつて称帝・改元したことがあるとの伝えがあり、その事跡を求めても見つからないため、呉越が後にこれを自ら隠したのではないかと疑われる。閩・楚・南漢など諸国の記録で呉越と往来した書を広く採ったが、いずれも呉越の称帝の事実は見えない。ただ落星石を「宝石山」と改めた制書に「宝正六年辛卯」とあり、これによって呉越が確かに改元していたことが分かる。辛卯は長興二年(931年)に当たり、銭鏐の晩年である。しかしその始終の経緯は伝わらないため、詳細には列挙できない。銭氏は五代の間おおむね中国を外に尊んでおり、前漢末の張軌(涼州で独自の年号を用いず晋を奉じ続けた例)に類する存在ではないだろうか。十国はいずれも中国の正統ではなく、その称帝・改元の有無によって得失を論じるほどのことではないため、ここに並べて『十国世家年譜』を作る。
十国称帝改元国の除外基準(問答)
- 問う。十国はもとより中国の正統ではないが、それでも中国から封爵を受け中国の年号を称して朝貢する国もあった。それを本紀に書かないのはなぜか。答える。封爵を書かないことで、彼らが中国の一部ではないことを示すのである。彼らの朝貢は四夷と同様のものであり、四夷として扱えば十分である。
- 問う。四夷も十国も同じく中国のものではない。それなのに四夷の封爵・朝貢は本紀に書き、十国のそれを書かないのはなぜか。答える。中国の視点から四夷を見れば「四夷」として扱ってよいが、五代の君主から十国を見る場合はそう単純ではない。だから十国の封爵・朝貢を四夷並みに書かないのでは記録として不十分であり、かといって四夷同様に書けば五代の君主を「四夷を制する天子」として扱うことになり、それも適切ではない。そこで「外」として本紀に書かず、彼らが自ら中国から離反した存在であることを示すのである。
- 問う。それならば東漢(北漢)を世家として立てて記すのはなぜか。答える。私は東漢を他の九国とは扱いを異にしている。『春秋』が乱世に基づいて治法を立てたように、本紀もまた治法によって乱れた君主を正すものであり、世が乱れれば疑わしく判断の難しい事柄が多くなる。正しい判断が難しい場合ほど慎重であるべきだ。周・漢の間の事情はまことに判断が難しい。ある人は、劉旻がかつて周に書を送り子の贇の返還を求めたが叶わず、その後に自立したのだから、旻の志は漢を忘れたことへの怨みではなく子を失ったことへの怨みによるのだ、と言う。
- しかし漢はかつて詔によって贇を後嗣に立てており、贇は漢の君主であって旻の子であるにとどまらない。旻の大義としては周に屈すべきではなく、その自立は必ずしも正しいとは言えないが、義において周に屈しなかった点は九国と異にするところがある。旻は生涯乾祐の年号を称し続け、子の承鈞の代になって初めて改元した――旻のこの志は哀れむべきものではないか。