繼冲、宋に降る
- 繼冲は字を成和といい、保朂が卒すると節度使を拝した。湖南の周行逢が卒し、その子の保権が立つと、その将張文表が乱を作した。建隆四年(963年)、太祖は慕容延釗らに命じてこれを討たせた。延釗は荆南に道を仮り、兵が城外を過ぎるとの約束をした。
- 繼冲の大将李景威は言った、「兵は権譎(けんけつ、謀りごと)を尚(たっと)びます。城外の約束は信ずるべきではありません。よろしく兵を厳(きび)しくしてこれを待つべきです」と。判官孫光憲はこれを叱って言った、「汝は峡江の一民に過ぎぬ。どうして成敗(成功と失敗)を識ろうか。かつ中国は周の世宗の時よりすでに天下を混一する志があり、まして聖なる宋が天命を受けた真主として出ておられる。王師にどうして容易に当たれようか」と。そして繼冲に斥堠(せきこう、物見)を去らせ、府庫を封じて待つよう勧めた。繼冲はこれを然りとした。
- 景威は出て歎じて言った、「わが言が用いられなかった。大事は去った。生きていて何になろう」と、そこで扼吭(やっこう、喉を絞める)して死んだ。
- 延釗の軍が至ると、繼冲は出て郊にこれを逆(むか)えたが、前鋒は遽(にわ)かにその城に入った。繼冲は亟(すみ)やかに帰り、旌旗・甲馬が衢巷(くこう、街路)に布列しているのを見て大いに懼れ、即座に延釗のもとに詣(いた)って牌印(はいいん、節度使の印信)を納めた。
- 太祖は優詔をもって、また繼冲を節度使に命じた。乾徳元年(963年)、南郊に事があり、繼冲は上書して陪祠を願った。九月、文をもって三廟に告げ、その将吏・宗族五百余人を率いて京師に朝し、武寧軍節度使を拝して卒した。孫光憲は黄州刺史を拝した。その後の事は国史に具(つぶさ)に載る。