新五代史卷六十六 楚世家第六 馬希廣

要約

希広は字を徳丕といい、希範の同母弟。希範は病床で拓拔常の忠を悟り希広を託した。希範の死後、拓拔常は位を兄の朗州節度使希萼に譲るよう勧めたが希広は従わず、将劉彦瑫は希萼が来る前に討つよう進言したが希広は「兄を殺すに忍びない、国を分けて治めればよい」と厚遇して帰した。希萼はこれを憤り、漢の朝廷への封爵要求も拒まれると南唐の李景に款を通じて挙兵し、湖南は内乱状態に陥った。

希広は劉彦瑫・許可瓊らに希萼の攻撃を防がせ僕射洲で一度は撃退したが、渓洞の蛮を誘った希萼の反撃に彦瑫は湄洲で敗れた。彭師暠が夜襲策を進言したが、既に希萼に内通していた許可瓊がこれを阻んで好機を逃し、可瓊が希萼に寝返って長沙の長楽門は陥落した。希広は妻子と慈堂に匿れたが翌日捕らえられ、希萼は「鈍夫に過ぎず左右にたぶらかされただけ」と憐れみつつも部下の沈黙を受けて縊り殺させた。

希萼は自立して楚王を称し李景に臣従したが、軍政を委ねた弟希崇が徐威・陸孟俊らと結んで反乱を起こし希萼を縛って自立、彭師暠らは希萼を衡山王として幽閉し李景に送った。李景は辺鎬を派して湖南に入り馬氏一族を金陵に遷し、楚は事実上滅亡した。後周の世宗の淮南征討を経て馬氏一族は京師に帰参し、それぞれ将軍・行軍司馬に任じられた。

年表

馬希広は馬希範の同母弟、字は徳丕。希範の死後に楚王を継いだが、兄馬希萼と対立し内紛となった。希萼の攻撃により長沙が陥落し、捕らえられて殺された。

年表(3件)

現代語訳全文

内紛と敗死

  • 希広は字を徳丕といい、希範の同母弟である。希範は生前から拓拔常の諫諍を嫌い、常が謁見に来ると希範は閽者に指図して「わしはこの人物に会いたくない、もう内に入れるな」と言い、絶交していた。
  • 病に臥すに及んで初めて常の言を思い出し、忠であったと考え、これを召して希広のことを託した。希範が卒すると、常はしばしば希広に、位を兄の希萼に奉ずるよう勧めたが、希広は従わなかった。
  • 希萼は朗州節度使であった。希範が卒すると、希萼は朗州から喪に奔った。希広の将の劉彦瑫は「武陵(希萼)が来る、その意図は良からぬものだろう。兵を出して迎え、非常の事態に備えるべきだ。甲を解き兵を釈いてから入らせよ」と謀った。
  • 張少敵・周廷誨は「王がこれを与えることができるなら与えてよい。さもなければ早く除くべきだ」と言った。希広は泣いて「わが兄である。どうして忍んで殺せようか。国を分けて治めればよいのだ」と言い、兵をもって砆石で希萼を迎え、碧湘宮に留め、厚く賂を贈って帰した。
  • 希萼は憤然として去り、京師に使いを詣で封爵を求め、邸を置いて藩を称することを請うた。漢の隠帝はこれを許さず、璽書を下して慰労しこれを解こうとした。希萼は怒り、李景に款を送り、兵を挙げて長沙を攻めた。
  • 希広は劉彦瑫・許可瓊らを遣わしてこれを禦がせた。彦瑫は僕射洲で希萼を破った。希萼は去って渓洞の諸蛮を誘い益陽を寇した。希広は崔洪漣に歩卒七千を率いて湘郷・玉潭に屯し諸蛮を遏らせ、劉彦瑫に舟兵をもって武陵に趨かせて希萼を攻めさせた。
  • 彦瑫は湄洲で敗れた。希広は大いに懼れ、京師に兵を請うたが、漢の隠帝は師を出すことができなかった。希萼は舟兵を率いて江を沿って上り、自ら順天将軍と号し、岳州刺史の王贇を攻めたが、堅城で戦わなかった。
  • 希萼は贇を呼んで「かつてお前と行動をともにする約束をしたのに、いまなぜ心を異にするのか」と言った。贇は「君王ら兄弟が相容れずして、将吏に異心をとがめるとはどういうことですか。願わくは君王が長沙に入っても同気を傷つけないでください。臣はどうして節を尽くさずにおれましょうか」と言った。
  • 希萼は兵を引いて去り、湘郷に下り長沙に至って水西に屯した。劉彦瑫・許可瓊は水東に屯した。彭師暠は城に登って水西の軍を望み、希広に「武陵の兵は驕り渓蛮が雑じっていて、その勢いは破りやすいでしょう。可瓊らに山前に陣を布かせ、私は歩兵三千で巴溪から江を渡り岳麓に趨り、夜にこれを撃つことを願います」と入って告げた。
  • 希広はこれを可と思ったが、可瓊はすでに密かに希萼に款を送っており、その議を沮んだ。翌日、師暠は可瓊のもとに詣で事を計ろうとすると、可瓊は目を怒らせてこれを叱り「お前の面には反相が出ているのを見るぞ、賊に投じたいのか」と言った。師暠は衣を払って出ていき、急いで希広に告げ、可瓊を殺すよう請うたが、希広は聞かなかった。
  • 希萼は長楽門を攻めた。牙将の呉宏・楊滌が門中で戦った。希萼はしばらく退却したが、まもなく許可瓊が希萼のもとに奔ったので、宏・滌はこれを聞いて皆潰えた。
  • 希広は妻子を率いて慈堂に匿れた。翌日、擒えられた。希萼はこれを見て惻然として「これは鈍夫に過ぎない、どうして悪をなせようか、ただ左右にたぶらかされただけだ」と言い、その部下を顧みて「生かしておきたいと思うが、どうか」と言ったが、部下は皆答えなかった。ついに縊り殺した。
  • 乾祐三年、希萼はみずから立った。翌年、漢の隠帝が崩じて京師は大いに乱れると、希萼はついに李景に臣属した。景は希萼を楚王に冊封した。
  • 希萼は軍政をことごとくその弟の希崇に任せた。希崇は楚の旧将である徐威・陸孟俊・魯綰らと乱を謀った。希萼が端陽門で酒宴を開いたとき、希崇は病と称して辞し、威らは悪馬十余匹を放って壮士に杖をもって従わせ、その府に突入して庫兵を奪い希萼を縛り、希崇を迎えて立てた。
  • 希崇は彭師暠・廖偃を遣わして希萼を衡山に幽閉させたが、師暠は希萼を奉じて衡山王とし、李景に臣属させた。希崇もまた懼れて景に命を請うた。景は辺鎬を遣わして楚に入らせ、馬氏の一族をことごとく金陵に遷した。時に周の広順元年であった。
  • 景は希萼を楚王に封じ洪州に居らせ、希崇には舒州節度使を領させ揚州に居らせた。顕徳三年、世宗が淮を征し揚州を下したとき、詔して馬氏の子孫を撫安した。まもなく揚州は再び景に入ったので、希崇はその兄弟十七人を率いて京師に帰った。
  • 右羽林統軍を拝命し、希能は左屯衛大将軍、希貫は右千牛衛大将軍、希隠・希濬・希知・希朗は皆節度行軍司馬とされた。