新五代史卷六十六 楚世家第六 馬希範

要約

希範は字を宝規といい、殷の第四子。嫡子希振は年長で賢かったが官を棄て道士となったため、母の寵愛で立った兄希声の死後、その次として跡を継ぎ楚王に封じられ、清泰二年に弓矢冠剣を賜り、天福四年には天策上将軍を加えられて開府承制した。学を好み詩文に善く、殷の代からの学士廖光図・徐仲雅・李皋・拓拔常ら十八人を優遇したが、自身は性質が奢侈で、光図らの軽薄な取り巻きと酒宴博打にふけった。ひとり拓拔常だけは沈厚な長者として切諫を続け光図らに憎まれた。晋の高祖に叛いた安従進・李金全討伐にも兵を出した。

渓州の蛮酋彭士愁が澧州を攻めると劉勍・劉全明らに討たせて大破し、渓州を服属させて銅柱を立てて表とし、南寧州・都雲・牂牁など南方諸蛮の酋長を次々帰服させて版図を広げたが、会春園・嘉宴堂・九龍殿など巨費を投じた造営で国用を圧迫し、拓拔常の諫言を退けて初めて国中に重税を課した。契丹が晋を滅ぼし中原が大いに乱れる中、牙将丁思覲は先王の遺業に倣い義兵を興して天下に号令すべきと廷諫したが、希範に「孺子はついに教えられぬ」と嘆じて自ら喉を斬って死んだ。開運四年、四十九歳で卒し、文昭と諡され、弟の希広が立った。

年表

馬希範は馬殷の第四子、字は宝規。兄希声の死後に楚王を継ぎ、天策上将軍を加えられて開府承制した。学を好み奢侈にも耽り、渓州の彭士愁を討って銅柱を立て南方諸蛮を服属させたが、開運四年に没した(?–947年、享年49)。

年表(5件)

現代語訳全文

封楚王と奢侈

  • 希範は字を宝規といい、殷の第四子である。殷の子は十余人いた。嫡子の希振は年長で賢かったが、その次の希声は希範と同日に生まれ、希声の母の夫人には美色があった。
  • 希声はその母の寵愛によって立つことができたが、希振は官を棄てて道士となり家に隠棲していた。それゆえ希声が卒すると希範がその次として立ち、殷の官爵を襲い楚王に封じられた。
  • 清泰二年、弓矢と冠剣を賜わり、天福四年には希範に天策上将軍を加え、開府して承制することを殷の故事のようにした。
  • 希範は学を好み詩文に善かった。学士の廖光図・徐仲雅・李皋・拓拔常ら十八人は皆かつての殷の時代の学士であった。希範は性質が奢侈であり、光図らは皆軽薄な徒で酒宴博打に興じ喚き楽しんでいたが、独り常だけは沈厚な長者であり、上書して切に諫めたので、光図らはこれを憎んだ。
  • 襄州の安従進、安州の李金全が晋の高祖に叛くと、詔して希範に出兵させた。希範は張少敵を遣わして舟兵で漢陽に趨かせ、米五万斛を漕運して軍に供給させた。金全らが敗れると、少敵はそこで引き返した。
  • 渓州刺史の彭士愁は錦・奨の諸蛮を率いて澧州を攻めた。希範は劉勍・劉全明らを遣わして歩卒五千でこれを撃たせ、士愁は大敗し、勍らは渓州を攻めた。士愁は奨州に逃げ、その子の師暠を遣わして諸蛮酋長を率いて勍に降らせた。
  • 渓州は西に牂牁、両林に接し、南は桂林・象郡に通じていた。希範はそこで銅柱を立てて表とし、学士の李皋に命じてこれに銘を刻ませた。これによって南寧州の酋長莫彦殊はその本部十八州を率い、都雲の酋長尹懐昌はその昆明等十二部を率い、牂牁の張万濬はその夷播等七州を率い、いずれも希範に付いた。
  • 希範は会春園・嘉宴堂を作り、その費用は巨万に及び、初めて国中に賦を加えた。拓拔常は切に諫め不可とした。希範はまた九龍殿を作り、八龍を柱に巡らせ、自ら「身も一龍である」と言った。
  • このとき契丹が晋を滅ぼし、中国は大いに乱れた。希範の牙将である丁思覲は廷諫して希範に「先王は卒伍から起こって攻戦を重ねてこの州を得、朝廷を頼りにして隣敵を制し、国を伝えて三世、地は数千里、兵は十万を養うに至りました。いま天子は囚辱され中国に主なく、真に覇者が功を立てるべき時です。まことに国の兵をことごとく出して荊襄より京師に趨り、天下に義を唱えることができれば、これは桓文の業でありましょう。それをなぜ国用を耗し土木に窮して児女子の楽しみとするのですか」と言った。
  • 希範はこれを謝したが、思覲は目を怒らせて希範を見て「孺子はついに教えられぬものだな」と言い、喉をかき切って死んだ。開運四年、希範は卒した。享年四十九。文昭と諡した。希広が立った。