新五代史卷六十四 後蜀世家第四 孟知祥
孟知祥(字は保胤、874–934年)は邢州龍岡の人。後唐の李克用一族と姻戚を結んで出世し、蜀平定後に成都尹として赴任すると自立を図り、東川を併合して蜀王となり、のち皇帝を称して後蜀を建国した。廟号は高祖。
出自と蜀入り
- 孟知祥、字保胤、邢州龍岡の人。叔父の遷は唐末に邢・洺・磁三州に拠ったが晋に捕らえられ澤潞を守り、のち梁に降った。父の道は晋に仕えたが目立たず、知祥が成長すると晋王李克用は弟克讓の娘を妻として与え、左教練使とした。荘宗(李存勗)が晋王だった頃、知祥は中門使となる。それまで中門使は罪により誅殺される者が多く、知祥は恐れて他職を求めたが、荘宗の命で代わりの人材として郭崇韜を推薦し、崇韜はこれに恩義を感じた。知祥は馬歩軍都虞候に遷り、荘宗が北京(太原)を置くと太原尹・北京留守となった。
- 魏王継岌の蜀討伐に際し、招討使の郭崇韜は「蜀平定後、西川を守るべき人材は孟知祥しかいない」と進言。蜀平定後、知祥は成都尹・剣南西川節度副大使に任じられ、入京した知祥を荘宗は盛大にもてなし「継岌は乳臭い若造だが両川を平定した、蜀の富はこれほどのものだ」と語った。
- 同光四年(926年)正月戊辰、知祥が成都に着いた時には崇韜は既に殺されていた。魏王継岌は東帰の途につくが、先鋒の康延孝が反乱し漢州を攻略。知祥は大将李仁罕を遣わし任圜・董璋らの兵と合わせて延孝を破り、その将李肇・侯弘実らと兵数千を得た。まもなく荘宗が崩じ、継岌も死に、明宗が即位した。
蜀での勢力扶植と安重誨との軋轢
- 知祥は密かに蜀の王たらんとする志を抱き、義勝・定遠・驍鋭・義寧・飛掉等の軍七万余人を置き、李仁罕・趙延隠・張業らに分掌させた。魏王班師の際、知祥は成都の富人及び王氏旧臣から犒軍銭六百万緡を得たが、二百万緡が残っていた。
- 任圜は蜀から入朝して宰相兼判三司となり、この残余銭を知る。この冬、知祥は侍中を加拝されたが、明宗は太僕卿趙季良を三川制置使として派遣し、犒軍の残余銭の京師送付と両川の税賦統制を命じた。知祥は怒って詔に従わず、旧知の季良を蜀に留めた。枢密使安重誨は知祥の異志を疑い、これを制する策を考え始める。
- かつて宦者焦彦賓が監軍だったが、明宗即位後に宦官は誅され諸道の監軍も廃止された。彦賓の罷免後、重誨は客省使李厳を新たな監軍として派遣した。李厳は以前蜀に赴いた後に蜀討伐を献策した人物で蜀人に憎まれ、知祥も「他道は監軍を廃したのに我が軍だけ置くのか、これは厳が再び蜀で功を立てようとしているのだ」と怒った。掌書記毋昭裔らは厳の入国阻止を求めたが、知祥は「来させておいて対処する」と応じた。
- 天成二年(927年)正月、李厳が成都に至ると、知祥は酒宴に招いた。厳が懐中の詔書を示して焦彦賓の誅殺を求めると、知祥は「諸方鎮は既に監軍を廃したのに、なぜ来たのか」と難詰し、客将王彦銖に命じて斬らせた。明宗はこれを問責できなかった。
- 知祥が太原の家族を迎えに遣わした使者は、鳳翔で節度使李従曮に李厳誅殺の報を聞かれ、謀反とみなされて抑留された。明宗はなお恩信で知祥を懐柔しようとし、客省使李仁矩を派遣して慰諭し、瓊華公主とその子昶らを帰した。知祥は趙季良を節度副使とするよう請い、事の大小を問わず彼に参決させた。
東川董璋との連携と挙兵
- 天成三年(928年)、唐は季良を果州団練使に転じ何瓚を節度副使としたが、知祥は制書を隠して季良の留任を上表。認められないと将雷廷魯を京師に遣わして論請し、明宗はやむなく従った。何瓚は緜谷まで来て進めず、知祥は瓚を行軍司馬に奏請した。
- この年、唐が荊南征討を命じ、知祥に峡を下るよう詔したため毛重威に兵三千で夔州を守らせたが、荊南の高季興が死に子の従誨が講和を求めると、知祥は撤兵を願い出て許されず、重威に兵を鼓噪させ潰走を装わせた。唐がこれを劾すると知祥は無罪を主張し、唐の大臣はますます知祥の謀反を疑った。
- 長興元年(930年)明宗の南郊に際し、李仁矩が助礼銭百万緡を求めたが、知祥は五十万を献じるにとどめた。安重誨以来、両川の要地には精兵二三千から五百人規模の牙隊が配された。この年、武信軍節度使夏魯奇、閬州を保寧軍として李仁矩を節度使に、緜州刺史に武虔裕を任じた。李仁矩は東川の董璋と不仲で、武虔裕は重誨の表兄であったため、璋と知祥はともに唐の討伐を恐れ、璋は婚姻を求めて連携。知祥は趙季良の勧めで合従を許し、両川連名で唐の派遣した節度・刺史らの召還を請うた。
- 長興元年九月、董璋が先に反して閬州を攻め李仁矩を殺した。同月、知祥は東北を望んで慟哭して挙兵を決意した。明宗は知祥の官爵を削り、天雄軍節度使石敬瑭を都招討使、夏魯奇を副とした。知祥は李仁罕・張業・趙廷隠に兵三万を率いさせ璋と合流して遂州を攻めさせ、侯弘実には四千を分けて璋の東川防衛を助けさせ、張武には渝州攻略を命じた。唐軍は剣門を破って三千人を殺したが、劒州で進撃を止めた。長興元年十二月、石敬瑭・趙廷隠は剣門で戦い唐軍大敗、張武は渝州を取ったのち病没、副将袁彦超が代わって黔州も取った。
- 長興二年(931年)正月、李仁罕が遂州を克し夏魯奇は戦死、知祥は仁罕を武信軍留後とした。石敬瑭は班師し、利州の李彦珂も棄城逃走。趙廷隠を昭武軍留後、夔州を得た趙季良を留後とした。唐軍は補給に苦しみ、明宗は安重誨を責めた。重誨は自ら出征を願うも讒言により罪を得て死んだ。明宗は知祥反乱の原因を重誨の失策とみなし、進奏官蘇愿らを遣わして知祥の家族の無事を伝え和解を図った。
東川併合と蜀王即位
- 知祥は重誨死後に唐が家族を厚遇したことを知り、璋にともに謝罪しようと誘ったが、璋は「私の子孫だけ殺された、何を謝るのか」と拒んだ。知祥は三度使者を送ったが璋は聞き入れず、観察判官李昊の説得も璋の疑いを深めた。璋は先に知祥の漢州を襲撃、知祥は趙廷隠に三万を率いさせ雞距橋で応戦。璋の降卒張守進の投降で知祥が乗じ璋は大敗、金鴈橋で子の光嗣に降伏を促すも光嗣は「父を殺して生を求める者などない」と拒み、璋とともに敗走。璋は梓州で殺され光嗣は自縊した。知祥は東川を併合したが、あえて唐へ謝罪の使者を送らなかった。
- 唐の枢密使范延光は「知祥は璋を破った以上、朝廷の力を借りて両川の重みとするだろう」と述べたが、明宗は「知祥は故人だ、屈する必要はない」と応じた。以前、克寧の妻孟氏(知祥の妹)は莊宗に克寧を殺された後知祥のもとに帰り、その子瓌は唐に仕え供奉官となっていた。明宗は瓌を帰して母を省させ、詔書で知祥を招慰した。
- 知祥は趙季良を武泰軍留後、李仁罕を武信軍留後、趙廷隠を保寧軍留後、張業を寧江軍留後、李肇を昭武軍留後とし、季良らは知祥に王を称するよう請うた。子の瓌が蜀に至った際に知祥の態度が倨傲だったため、明宗は九月、知祥の表を得て趙季良ら五鎮の節度任命と刺史以下の自専の授権、蜀王封号を許し、瓊華公主の死を悼んだ。長興四年(933年)二月癸亥、知祥を検校太尉兼中書令・成都尹・剣南東西両川節度使等に任じ蜀王に冊封、季良ら五人も節度使とされた。唐兵の残留者数万には手厚く衣食を給した。
- 十一月、明宗が崩じ、翌年閏正月、知祥は皇帝に即位し国号を蜀とした。趙季良を司空同中書門下平章事、王処回を枢密使、李昊を翰林学士とした。三月、唐の潞王が鳳翔で挙兵し愍帝の討伐軍が敗れると、山南西道節度使張虔釗・武定軍節度使孫漢韶がそれぞれ蜀に帰属した。四月、知祥は明徳と改元。六月、虔釗らが成都に至り宴が催された際、虔釗が觴を捧げ寿を祝したが知祥は手が緩んで觴を挙げられず病に伏し、子の昶を皇太子・監国とした。知祥は程なく卒し、文武聖徳英烈明孝皇帝と諡され、廟号高祖、陵は和陵。