新五代史卷六十四 後蜀世家第四 昶
昶(孟昶、919–965年)は孟知祥の第三子で、東川節度使から皇太子・監国を経て即位した。若くして李仁罕・張業ら知祥旧臣の専横を除いて親政を始めたが、晩年は奢侈に流れ、北漢との密約が発覚したことで宋の討伐を招き、わずか六十六日で降伏した後蜀最後の皇帝。
即位と政事
- 昶は知祥の第三子。知祥が両川節度使であった頃行軍司馬、僭号後は東川節度使同中書門下平章事となった。知祥の病中に監国し、知祥が卒した後も喪を秘し、王処回と趙季良が「速やかに嗣君を立てるべし」として昶を擁立してから発喪した。昶は改元せず明徳の元号を継ぎ、五年に至り広政と改元した。
- 明徳三年(936年)三月、熒惑が積尸を犯したことを昶が蜀分の凶兆として恐れ、司天少監胡韞に問うたが、韞は「積尸は本来秦分に属し、過去の事例でも蜀に禍はなかった」と説き昶は止めた。昶は打毬・走馬を好み方士の房中術に凝り、良家の子女を後宮に多く入れたが、樞密副使韓保貞の諫言で悟り即日出宮させ、保貞に金を賜った。上書者が台省官の人選を論じた際も昶は「なぜ人を選んで任じよと言わないのか」と述べ、諫言を退けるよう勧める左右を退けた。しかし昶は若く政務に疎く、知祥旧臣らが優遇されて驕慢となり、特に李仁罕・張業が甚だしかった。即位数月で仁罕を執らえて殺しその家を滅ぼした。
- 広政九年(946年)、趙季良が卒すると張業(仁罕の甥)がますます権勢を振るい、宰相を兼ねて度支を掌り、私邸に獄を置いて酷法で民を厚く搾取し蜀人の怨みを買った。広政十一年(948年)、昶は匡聖指揮使安思謙と謀り業を捕らえて殺した。王処回・趙廷隠も相次いで致仕し旧臣はほぼ尽きた。昶はようやく親政を始め、朝堂に匭を置いて下情を通じさせた。
- この頃契丹が晋を滅ぼし後漢高祖が太原に起こり中国は乱れた。雄武軍節度使何建が秦・成・階三州を挙げて蜀に帰属し、昶は孫漢韶に鳳州を攻略させ、王衍旧地を悉く回復した。漢の趙思綰(永興拠点)・王景崇(鳳翔拠点)が款を通じたため、昶は張虔釗・何建・李廷珪を派遣し呼応させた。宰相毋昭裔は不可と諫めたが、昶は関中を窺う志が鋭く安思謙に増兵させた。まもなく漢が思綰・景崇を誅すと、虔釗らは撤退。功のなかった思謙は威を示すため兵を多く殺し、昶は翰林使王藻とともに思謙誅殺を謀ったが、辺境の急奏を藻が滞らせたため昶は怒り、思謙誅殺の際に藻も捕らえて斬った。広政十二年(949年)吏部三銓・礼部貢挙を置いた。十三年、昶に睿文英武仁聖明孝皇帝の号が加えられ、子の玄喆を秦王として六軍事を判じさせ、次子玄珏を褎王、弟仁毅を夔王、仁贄を雅王、仁裕を嘉王に封じた。
- 広政十八年(955年)、後周世宗の蜀征討が秦州から始まると、昶は雄武軍節度の韓継勲を頼りなく思い嘆いた。客省使趙季札が自ら秦州監軍を願い出たが、周軍来襲を聞くと徳陽まで逃げ帰り、召問されても一言も発せられず昶に殺された。高彦儔・李廷珪を堂倉に出したが彦儔は大敗し青泥に走り、秦・成・階・鳳の諸州は周に帰した。昶は恐れて南唐・後漢に使者を送り牽制を図った。広政二十年(957年)、世宗が獲った蜀の捕虜を返還すると昶も捕虜の周将胡立を返し世宗に書を送ったが、世宗は臣礼を欠くとして答えなかった。翌年、周が南唐の淮南十四州を取ると諸国は恐れ、荊南の高保融が昶に帰周を勧めたが、昶は先の一件を理由に応じなかった。
- 昶の幼子玄宝が七歳で卒した際、太常は「無服の殤に贈典なし」としたが、李昊が唐徳宗の皇子評の故事を引き、昶は玄宝に青州大都督を贈り遂王に追封した。広政二十五年(962年)、秦王玄喆を皇太子に立てた。昶は晋漢交代期の中国の混乱に乗じて険を拠り、君臣ともに奢侈にふけり溺器まで七宝で飾るほどであった。宋が興り荊南・湖南を平定すると昶は恐れ、大程官孫遇に蠟丸書を持たせ北漢に密使を送り挙兵を約したが、遇は宋の辺吏に捕らえられ、太祖皇帝はついに蜀討伐を詔し、王全斌・崔彦進らを鳳州、劉光乂・曹彬らを帰州から出兵させた。宋は右掖門南に昶のための邸第五百余間を用意し降伏を待った。
- 昶は王昭遠・趙彦韜らに防戦を命じた。昭遠は成都の人で幼くして僧智諲に仕え、知祥に才を愛されて以来重用され、王処回致仕後は通奏使・知樞密使事として府庫の金帛も自由に使わせるほど信任された。母李太后の諫めにも昶は聞かなかった。昭遠は兵書を好み諸葛亮を自任し、出征時に「二三万で中原を反掌のごとく取る」と豪語したが、三泉で王全斌に敗れ吉柏江の浮橋を焼いて剣門に退いた。玄喆も精兵数万で剣門を守ったが愛姫や伶人を伴い蜀人の失笑を買った。全斌軍は来蘇の間道から挟撃し、昭遠・彦韜は敗走して捕らえられ、玄喆も逃げ帰った。
- 夔州では守将高彦儔が敗れ、判官羅済の逃走勧告を拒んで自焚死した。蜀兵は各地で潰走し将帥は多く捕らえられた。老将石頵の堅守策にも昶は「先君と四十年養った士が一矢も報いない、誰と守るのか」と嘆き、李昊に降表を書かせて降伏した。時に乾徳三年(965年)正月、挙兵から降伏までわずか六十六日であった。李昊はかつて王衍の翰林学士として衍の降表も書いており、蜀人は「世々降表を書く李家」と門に表して嘲笑した。
- 昶は京師に至り検校太師兼中書令・秦国公に封じられたが七日で卒し、楚王を追贈された。母の李氏は明弁で優遇され「国母」と呼ばれ、太祖に「劉鈞平定の後は故郷太原へ帰したい」と願った。昶の死に際し李氏は哭かず酒を地に注いで「社稷に殉じられず生き恥をさらした、汝のために生き延びていたのだ」と述べ、絶食して卒した。その他の事跡は国史に見える(知祥の興亡年数は諸書で一致し同光二年乙酉の入蜀から皇朝乾徳三年乙丑の国滅まで四十一年である。ただし『旧五代史』が同光三年丙戌からとして四十年とするのは誤り)。