新五代史卷六十一 世家第一 楊渥

政変と非業の死

  • 楊渥は字を承天といい、行密の長子である。行密が病んだとき渥を出して宣州観察使・右衙指揮使とした。徐温は密かに渥に「今、王は病んで嫡子を出したが、必ず姦臣の謀がある。もし他日子を召す者があっても、私(温)の使者でなければ決して応じるな」と言い、渥は涙を流して温に謝して去った。行密の病が重くなると判官の周隠に命じて符を作り渥を召させたが、周隠は渥が幼弱で事を任せるに足らないと考え、行密に旧将で威望ある者に軍政を代行させるよう勧め、大将の劉威を推薦した。行密はまだ許していなかったが、徐温と厳可求が病を見舞いに来て、行密が周隠の議を話すと温らは大いに驚き、急ぎ周隠のもとへ計事に赴いた。周隠がまだ出ていない間に、温は案上に召状がまだ残っているのを見て取ってこれを急ぎ送らせた。渥は温の使者を見てようやく赴いた。行密が卒すると渥は嗣立し、周隠を召して「お前は我が国を売ろうとした。今更どんな顔で楊氏に見えようか」と罵り、これを殺した。王茂章を宣州観察使とした。渥が入城した際、宣州の府庫の品を多く広陵に運ばせたが、王茂章はこれを惜しんで与えなかったため、渥は怒って李簡に兵五千で包囲させ、王茂章は銭塘に奔った。
  • 天祐三年二月、劉存が岳州を取った。四月、江西の鍾伝が卒しその子匡時が代わって立ったが、鍾伝の養子延規が立てなかったことを怨み兵をもって匡時を攻めた。渥は秦裴に兵を率いさせこれを攻め、九月に洪州を克して匡時とその司馬陳象を捕らえて帰り、陳象を市で斬り、匡時を赦して秦裴を江西制置使とした。後梁太祖が唐に代わって開平と改元したが、渥はなお天祐と称した。鄂州の劉存・岳州の陳知新が舟師をもって楚を伐ったが劉陽で敗れ、楚人は劉存と陳知新を捕らえて帰った。楚王馬殷は日頃その名を聞いており、二人とも生かそうとしたが、劉存らは大いに殷を罵り「昔、宣城で汝の刃を逃れたが、今日の敗北は天が我を亡ぼすのだ。我らがどうしてお前に仕えて生を求めようか。我らは楊氏に背く者ではない」と言った。殷は屈服させられないと知り、二人を殺した。岳州は再び楚の手に落ちた。
  • はじめ渥が広陵に入ったとき、腹心の陳璠・范遇に帳下の兵三千を宣州に留め置いた。渥が広陵に入って立つと、徐温を憎む者たちが牙兵を典理する徐温を嫌い、陳璠らを召して東院馬軍とし自衛させたが、徐温は左衙都指揮使の張顥とともに、行密の時からの旧将であり、渥を立てた功もあって、共に陳璠らがその権を侵すのを憎んだ。四年正月、渥が事に臨むと陳璠らが側に侍していたが、徐温・張顥は牙兵を擁して入り陳璠らを拽き下ろして斬った。渥はこれを止められず、これにより政を失って心に憤りを抱いたが発することができなかった。徐温らもますます不安になり、五年五月、徐温と張顥は共に盗を寝室に送り込み渥を殺させようとした。渥は群盗に、もし温らを反対に殺せば皆刺史にすると説いた。群盗は皆承諾したが、紀祥だけは従わず渥を縊り殺した。時に年二十三。諡は景。弟の隆演が立った。楊溥が僭号すると渥を追尊して烈宗景皇帝とし、陵を紹陵と称した。